第5回オンライン防災カフェ「北部災害ボラセン95日間、怒涛の日々」

2019年10月13日未明、長野県を襲った台風19号。千曲川が決壊した長野市では、災害ボランティアセンターを2カ所で立ち上げ、県内外から合計64,705人のボランティアを受け入れました。一日で最大3,578人が県内外から駆けつけて、泥で埋め尽くされていた地域を片付けていきました。被災者の皆さん、社協職員、NGO、自衛隊・・・凄まじい人海戦術、その名も「One NAGANO Operation」。その快進撃は、今も多くの人々に語り継がれています。

その快進撃がどう起こったのか? 復旧のリアルとは? 災害から3年半、改めて、長野市災害ボランティア委員会が防災カフェをシリーズで企画し、当時のボラセン立ち上げのキーパーソン山崎博之さんを呼んで、3月28日オンラインで振り返りました。

山崎さんスライドから

原点は新潟中越地震の経験から始まった

山崎さんは、2004年10月23日、親や友達から集めた3万円で新潟中越地震に駆けつけ、50日間、支援活動に加わりました。その後、長野県社会福祉協議会(以下、県社協)へ就職し、地域福祉に携わります。

2007年の中越沖地震では、災害ボランティアセンター運営に加わり、翌年から柏崎市社会福祉協議会に席を移し、復興支援業務に就きました。一方で、企業・社会福祉協議会・NPO・共同募金会が協働するネットワーク組織、支援P会議(災害ボランティア活動支援プロジェクト会議)にも関わり、2011年3月11日に起きた東日本大震災をはじめ、全国で災害支援活動を経験します。

2014年4月、生活困窮者自立支援制度施行を前に、長野の県社協に戻ります。まるで山崎さんを待つように、同年、7月南木曽町の土石流、9月の御嶽山の噴火、11月には神城断層地震が起き、県内での災害支援対応に奔走します。その後も山崎さんは支援P会議のネットワークで、日本全国で災害が起きると、現地に駆けつけて災害ボランティアセンターの立ち上げに関わるなど、ボランティアによる災害支援活動の骨格組み立ての役割を果たせる、日本でも有数の人材へと成長していったのです。

そして、2019年9月、台風15号の房総半島台風が日本列島を襲います。まず、山崎さんは、千葉県館山市に支援P会議の要請で入っていました。1カ月という期間で復旧していたところ、同10月、追い打ちをかけるように19号台風がやってきます。これが令和元年東日本台風です。館山市の海岸沿いの宿泊施設にいた山崎さんの耳に、「長野県に特別警報が出た」という知らせが飛び込んできました。「堤防が切れた」という報道を確認し、山崎さんは夜明けとともに館山を立って、長野県へ向かったのです。

実はこの時、佐久市長がオンラインでいち早くボランティア集めの発信をして話題となっていました。そこで13日の夜に佐久市に入り状況の確認と今後の相談をし、翌日上田市へ、そして、お昼には本拠地の長野市に戻ってきます。その時、山崎さんは長野インターから見た光景に愕然としたといいます。インター近くの松代地区一帯で千曲川が溢れ、町の様相が一変していたのです。

令和元年東日本台風直後の10月14日に長野に降り立つ

10月14日にまず、長野市社会福祉協議会(以下、市社協)のある市ふれあい福祉センター(市ボランティアセンターへ)向かいます。その際、長野市中心部の市役所東側のボランティアセンターの場所は本部とし、ボランティアを一気に受け入れる災害ボランティアセンターの拠点とすることは断念します。災害の規模として山崎さんの経験からの見立てで、約5万人のボランティア受け入れが必要であり、交通のアクセスがよく、被災地からできるだけ近い場所にしたほうがいいと想定したからです。

当時、もっとも被害の大きかった長沼地区や豊野地区に近い北部エリアは、まさに混乱状態でした。市内の幹線道路は交通渋滞が続き、即座に広い場所の確保は難しい状況でした。そこで、まず被害があった松代地区や篠ノ井地区から近く、県内外からの交通の便がいい、市南部にある南長野運動公園をセンターにと、市社協が行政と交渉しました。

試算だと、ボランティアを平日1,000人、土日2,000人規模を受け入れなければなりません。ちなみに中越地震では総合計2万人で一日最大で1,000人でした。西日本豪雨の広島呉市のケースは合計3万人の規模でした。つまり、5万人という試算は東北の震災以来、特に台風被害では経験したことのない最大級のボランティア支援が予想されたのです。

5万人のボランティアの必要性を試算。南部と北部に災害ボランティアセンター立ち上げ

まずは、南部の災害ボランティアセンター設置場所を、南長野運動公園にと交渉しましたが、電話での交渉が難航。そこで、山崎さんは現地の南長野運動公園に飛びます。すると園内に白い大きなドームが目に入りました。そこはゲートボール場でした。指定管理者に直談判、すると「こんな状況下だからいいですよ、すぐ使ってください!」と言われたのです。交渉成立が14日の夕方、翌日15日に準備しました。名古屋市を本拠地とした災害支援専門のNPO法人レスキューストックヤードと連絡を取り、夜7時には10トン車で支援物資が届きました。そして、16日から「長野市南部災害ボランティアセンター」の開設に漕ぎつけたのです。

息つく間もなく、山崎さんは北部災害ボランティアセンター開設へと踏み出します。最初に候補地に挙がったのは東和田にある長野運動公園でした。広さも十分でしたが、長沼地区や豊野地区の被災地からは少し距離がありました。そこで、柳原地区の市民交流センターにアプローチしました。そこは東部文化ホールと柳原公民館、柳原支所が併設された施設でした。長沼地区とは中学の通学区が同じだったため、被災者にとって距離的にも心理的にも近かったのです。長沼支所長が市役所に電話してくれて、北側の建物を使っていいと許可が降り「長野市北部災害ボランティアセンター」が立ち上がったのは10月18日でした。

ここで問題となったのは、駐車場の確保です。南部災害ボランティアセンターでボランティアを受け付けた後に、大型バスで中野インターから南下するルートをとりました。また長野駅に電車で来たボランティアはバスで送迎。さらに、市内のボランティアには自転車で来てください! と呼びかけ相当数の自転車でのボランティアが集まりました。

山崎さんスライドから

区ごとのサテライトセンターの確保がカギに

北部災害ボランティアセンターができると、今度はサテライトセンターの獲得に走ります。サテライトとは、被災した地域の区単位で作る災害ボランティアセンターの中継地のことです。長沼の区長会に16日のもとに行き「各区におきたい!」と嘆願。「こいつらは本気だと思った」(後日区長談)と捉えてくれて、区長の協力で各区にサテライトセンターの場所を確保してもらいました。それが18日の夜のことです。その後、続々とボランティアが集まってきてすぐに700人のボランティアを受け入れることができました。

サテライトができてすぐの時期は、まず被災者のニーズの整理はほぼできていませんでした。とにかく、やれることを見つけてやってくださいというしかなかったのです。その時点でのサテライトに配置された社協の職員は地獄だったといいます。「ボランティアがなかなか来ない!」との被災者からの電話に出るのが怖いぐらいだったと言います。

今回の長沼地区・豊野地区のボランティア受け入れについては、このサテライトを置いたことが特徴でした。その際には、各区ごとにさまざまな団体と連携したことも大きかったのです。大学やNGO、生協や、共同募金会、などなど。そして、重機を持つ技術系のNGOとの連携もカギだったと言います。

One NAGANO作戦が、被災地の空気を一気に変えた!

こうして、被災直後から第1フェーズは、手探りでした。詰めかけたボランティアを配置しきれずに報道から叩かれたこともありました。ボランティア対応の仕組みを整えるのに2週間を要しました。

そして、被災から半月、10月31日、知事と一緒に記者会見を開くことに・・・。県社協の上司からまず、「現場から、そのまま長靴で県庁まで来て!」と言われました。現地から情報を持って駆けつけると、すぐに知事室に来てくれ!と、知事と直接話しました。山崎さんから「たくさんのボランティアの皆さんに来てほしい! と県から発信をしてほしい」と訴えます。記者会見で知事と同席して、溢れる報道陣の前で、全国に向けて呼びかけたのです。

そして、11月の最初の2日・3日・4日の連休に、まさにその報道を見たり、SNSでの拡散情報を見たりして、一気に一日3,000人を超えるボランティアが県内外から駆けつけてくれたのです。11/3はもっとも多く3,571人でした。

山崎さんスライドから

地区内はボランティアで埋め尽くされました。社協をはじめ、現地のボランティアセンタースタッフたちや、それを取り巻く多くの団体の協力で「One NAGANO Operation」という作戦が生まれてきました。みんなの心を一つにして頑張ろう! という象徴的なスローガンとなりました。

ボランティアが、被災者と一緒に泥をかき出して、災害廃棄物を運びます。軽トラ隊と呼ばれる軽トラ持参のボランティアが、赤沼公園へ隊列を作って一方方向に運んでいきます。自衛隊が夜中にその廃棄物を地区外へ運び出すという、人海戦術を3日間集中してやりました。すると、千曲川決壊で流れてきた泥や漂流物、被災民家から出される災害廃棄物が至る所の地面を覆って、足の踏み場もなかった絶望的な光景が、ボランティアの力で一気に変わります。地面が見えると同時に、ボランティアの人たちの達成感が大きなエネルギーとなって、地域全体の空気に変化をもたらしたのです。

ボランティアの皆さんのマンパワーにより、景色が変わり、地域の空気が変わり、「ボランティアさんありがとう」という声がでてきて、地域からボランティアに対する信頼を得られた瞬間でした。

山崎さんスライドから

ニーズ探しや、ボランティアの信頼確保への地道な努力

実は、多くの被災者が、ボランティアを頼むのに躊躇してしまうのです。なぜなら、知らない人が地域や家の中に入ってくることが不安だからです。またどう片付けていいのか、途方に暮れている人もいました。

そこで、災害ボランティアセンターのスタッフが、チラシを持って被災者宅を訪問しました。「お手伝いできることがあればぜひ」と声をかけます。一方で、サテライトに住民も集まってきました。「あの人が困っている」と聞くと、その地元の方と一緒に被災者の家を訪問します。これは「コミュニティマッチング」と呼びます。いい意味での世話焼きな地域の方とつながって、一緒に被災者宅を訪問することで敷居が下がります。地域全体を一緒に綺麗にしていくことを目的に動いていきました。被災者本意、地元主体が鉄則なのです。それこそが災害ボランティアセンターの基本であると山崎さんは強調します。

そしてまた、県内外のたくさんのボランティア団体との連携を惜しみません。どんどんボランティアの熱が高まっていきました。冬に入ると、見守り相談支援事業として、生活支援相談員の雇用をし、見守り支援をスタートさせました。長野県生活支援・地域ささえあいセンターについてはこちらから。復興に向けて、新しい地域づくりを展開していこうという動きを下支えしたのです。

山崎さんスライドから

質問コーナーで本音を語る

質問1 長野にはいろんなNPOやNGOが来ていたのはなぜ?

山崎 (スキーや観光・避暑などで訪れるなど)長野県自体への想いがあってきてくれた方がたくさんいました。千曲川の堤防決壊が印象的に繰り返し報道されたことも大きかったのでしょう。また、今回19号台風の被害で、全国で一番西の被災地が長野県でしたので、西側からの支援が受けやすかった面もあります。長野だけ独り占めしたという声もありましたが、県内の団体やそのネットワークを通じた協力が多かったのは確かです。

質問2  山崎さん個人の支援時のルーティーンを教えてください

山崎 サテライトで夕方ミーティングをして、次に北部災害ボランティアセンターでミーティング、そして、その後7時から市社協の本部でミーティングをします。そして県社協に10時に戻って、翌日の職員のシフトを配置していくんです。ほぼ0時過ぎに帰宅して、翌早朝、トレーラーハウスの鍵を開けてマイクロバスの運転手さんに鍵を渡さなければならなかった。代休は後でいただきました(笑)。

質問3  山崎さんのように、被災直後に状況を把握して、支援計画に向けて見立てができる人材は長野県内にいますか?

山崎 2021年9月の茅野市土石流災害の時は、私自身は他の仕事の関係で現地に入れなかったのです。後で、茅野市社会福祉協議会の対応にあたった職員に聞いたら、長野の災害で経験したので対応できたと言われました。

2019年の台風19号の災害では、外部の社協職員の応援が約3500人いました。県内からも相当たくさんの市町村社協の職員が来て応援してもらいました。語弊になるかもしれませんが、県内社協の職員も、長野市の災害支援の応援で、人脈もでき、経験を積めたのではと思います。

質問4  最後にここでしか言えないエピソードを。

山崎 多くのボランティアが入ったことで、もう一度この家に住もうと思えるようになったという声を被災者の皆さんから聞きました。当時、災害ボランティアセンターの朝礼で、僕がいつもスタッフにお願いしていたことを紹介します。

「作業を通じて、住民の皆さんと対話をしてほしい。そのことで被災者が絶望の中から、またここに住みたい! という意識が生まれ、今後の選択肢が広がるきっかけになる。だからこそスタッフの皆さんは、ボランティア活動にそうした意味づけをして、伝えてほしい」

「ボランティアの皆さんのリピーターを増やすことも大事。スタッフがキャラをワントーン明るく変えて、おもてなしを大事にして、対応していきましょう!」


災害から3年半、当時筆者も支援会議で「現地を見た時、絶望しかなかった」という言葉を何度か聞きました。ボランティアの皆さんの力で、支援する私たちもどれだけ勇気付けられたかしれません。その裏舞台では山﨑さんたちの壮絶な戦いがあったこと、改めて認識できました。
全国で、いつ起きるやもしれない災害に、この経験をつないで生かすこと。そのバトンを渡す役割の中心に山崎さんという存在があると実感しました。

(取材・執筆/ナガクル編集デスク 寺澤順子)