アフガンで住民を救った故・中村哲医師の映画「荒野に希望の灯をともす」に600人集まる

アフガニスタンで武装勢力に銃撃され2019年に死去した医師・中村哲の足跡を追ったドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯をともす」の上映会が2025年5月18日(日)、長野市豊野町の豊野防災交流センターで行なわれた。3回に渡る上映はいずれも満席で、約600人が鑑賞し、医師・中村の生き様にふれた。

3回とも会場は満席に

戦火のなかで、旱魃(かんばつ)の土地を農地に

中村は医師としてアフガニスタンとパキスタンで35年にわたり、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた。誠実な人柄が現地の人たちに信頼され、医療支援を続けて来た。

しかし2000年、アフガニスタンは甚大な旱魃に見舞われる。農業は壊滅的な被害を受け、渇きと飢えで命を落とす人が続出した。中村は医療を提供する以前の対策として食料の確保が必要だと考える。砂漠を農地に生まれ変わらせるために井戸を掘り、大河クナールから水を引く用水路を建設するという事業をスタートさせた。その大工事と住民との関りの様子がドキュメンタリーでリアルに描かれている。

2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件がおき、イスラム主義組織タリバンが支配していたアフガニスタンにアメリカが攻撃を開始したことで20年におよぶ戦場になる。そのときのことを、中村は「彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る」と語っている。

2001年10月に初版が発行された『医者 井戸を掘る―アフガンの旱魃(かんばつ)との闘い(著者・中村哲 発行所・石風社 定価・1800円+税)』のなかで、中村は「ひび割れた段々状の平たい地面が、昨年まで豊かな水田だったとは誰も思わないだろう。頭上をロケット弾がかすめる。遠くで機関銃の音がこだまする。我々は足元でさくさくと鳴る乾いた粘土質の土を踏みながら作業場に着いた」「かつて子供たちが駆け回り、鍛治屋の音、のどかな牛の声、川の流れ、水車の音、井戸端会議の女たちの話し声……、これら心和む人里の喧噪(けんそう)に代わって、無機質な弾丸の炸裂音が響くだけだ」と記している。

そんな状況下で瀕死のアフガニスタンの国民を救おうと、中村を先頭に「素人集団」が無謀とも思える水路建設という大工事を進めるのだ。その過程で、しだいに心を打たれた住民の協力の輪が広がっていく。中村は今から5年前に何者かの凶弾によって倒れてしまうが、その後のことも含め映像は中村医師35年の軌跡を追っている。日本電波ニュース社が制作・配給し、2022年7月の公開以降、全国67の劇場で上映された。その後も各地で自主上映会が相次ぎ、DVDにもなっている。

被災地豊野の防災交流センターが会場

戦火のなかで「武力で平和は守れない」との思いを抱きながら、旱魃という災害からの脱出に向け、聴診器をスコップに持ち換えて取り組んだ中村。「とにかく生きておれ! 病気は後で治す」と言い放ち、いまなすべきことに集中した

豊野町は、平成元年(2019年)の東日本台風による千曲川堤防決壊で甚大な被害を受けた。あれからまもなく6年。上映会場となった豊野防災交流センターは昨年8月に完成。防災機能を備えた住民の交流拠点となっている。1.2メートルのかさ上げがされ、災害時は避難所として利用できる。救助用のボート6艇が備えられ、直接下水道に流せるマンホールトイレなどが完備されており、災害時に迅速かつ効果的な対応ができるような設計になっている。

水害からどう立ち直るかという点で、旱魃とたたかった中村の生きざまは台風被災からの復興とも通じるものがあり、上映会には地元豊野住民だけでなく長野市全域から参加があった

豊野防災交流センター
センター内

受付近くには、アフガンの現地報告の写真パネルや台風被災のパネルが掲示され、PMS・ペシャワール会の紹介もされた。

※ペシャワール会 中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO(NPO)団体。

一人の女性の願いが広がって上映に

上映会の発端は、豊野町でボランティア活動をしている一人の女性の「思い」からだった。中村哲医師の生涯を描いた映画を見たいとの願いが膨らみ周囲の人に話すなかで昨年12月、10人で上映委員会を立ち上げることとなった。助け合って困難を乗り越える医師・中村哲の生き方からの学びが大きいことから豊野町住民自治協議会も賛同し、共催することになる。長野市教育委員会や学校法人豊野学園豊野高等専修学校の後援も得てチラシを作成した。反響は大きく、予約が殺到して予約券の受付を断らざるを得ない状況だった。1回目の上映ではホールの収容キャパを超したため、第二会場を設ける措置をとった。

上映会の受付

谷津監督が医師・中村の人となりを紹介

上映後は谷津賢二監督のスピーチがあり、医師・中村の人となりを紹介した。谷津さんは1998年から中村が亡くなる2019年まで25回に渡ってカメラマンとして中村の背中を追った。撮影時間は1,000時間に及ぶと言う。その素材を編集して貧困・差別・病気に立ち向かった中村の姿を描いた。

巡回診療キャラバンに同行したときのエピソードでは、半眼で話し方も訥々(とつとつ)としていて何ともパッとしなかった中村が、住民が診療に訪れると一転して気迫に満ち、そのときのお互いに美しみ合う姿に感動したと言う。「思わずカメラマンがカメラを下に置いて、自分の目で直接見ていたい衝動にかられた」そうである。そして、「そこにはカメラには映らない大切なものがあると感じた」と話した。

洪水のとき用水路に鉄砲水が流れ込まないように命をかけてパワーシャベルで堤を壊した中村の実話は人々の間に広がり、「住民から勇敢な男として尊ばれていた」と紹介した。だが本人は、武勇伝や功績はいくら聞いてもいっさい黙して語らない人だったそうだ。

谷津さんは、戦時下のなかで用水路を作り、民族も宗教も文化も言葉も違う民から何故それほどまでに敬愛され、また本人も民をいつくしむことができたのかという疑問をいだきながら取材を進めたとのこと。そのなかで、「一致できるものがあるはずだ。違いがあっても、それを乗り越えて協力し助け合って生きることが平和につながる」と中村は考えていたのではないかと説明した。

また中村が大好きだった言葉として「一隅を照らす」について紹介。置かれた場所で頑張るという姿勢が中村の生き方だったと紹介した。

谷津監督のスピーチ

売り上げ金は支援団体に寄付

主催者から今回の上映会のチケット売上金は、必要経費を除いて支援活動をしている非営利団体に寄付すること、詳細は豊野町住民自治協議会のホームページで報告することが伝えられた。また7月19日に千曲市でも上映会が計画されているとの情報提供もあった。

ソーシャルライター 太田秋夫