災害記録『千曲川堤防 決壊』を発刊! 地域の足跡を記録に—長沼歴史研究会

2019年(令和元年)10月の東日本台風で被災した長野市長沼地区は、知る人ぞ知る「歴史と文化薫る地域」です。郷土のことを詳しく調査研究し、多くの人に知ってもらおうと、さまざまな活動を展開している「長沼歴史研究会」。2022年春、災害記録『千曲川堤防 決壊』を発刊しました。会員数は十数名の小さなグループですが、地域の足跡を記録し、被災から立ち直るための様々な取り組みにも力を入れています。

まぼろしの「長沼城」の姿を追い求めて

堤防が決壊した場所(穂保地籍の千曲川左岸)には500年ほど前、「長沼城」がこの地にありました。自然堤防上に築かれた平城です。この周辺を支配していた島津氏の拠点でしたが、弘治3年(1557)に武田信玄の軍勢が葛山城を攻め落とし、さらに善光寺平から北信濃へと兵を進めたことから、島津月下斎は大倉城へと退却を余儀なくされました。川中島の戦い後、飯山や野尻方面へと進出を企てる武田軍は、長沼城に城下町を建設します。永禄11年(1568)には馬場美濃守信房が城を再建し、松代の海津城とともに川中島地方を支配する拠点の一翼を担いました。(ながの観光コンベンションビューロー「川中島の戦い」のHPより) 江戸時代には長沼藩の藩庁が置かれ、街道と宿場があった歴史も刻まれています。また、小林一茶が長期間にわたって逗留した地域としても知られています。

アグリながぬまの駐車場に設置されている長沼地区の案内板

地域の歴史である「長沼城」について詳しく知りたいと有志が集まり、2008年に長沼歴史研究会を立ち上げました。ところが、「長沼城」に関係する資料は探したもののどこにもなく、「まぼろしの長沼城」と言われていました。研究会は「長沼城」の姿を追い求めて、専門家を招いて学習したり、各所を尋ね歩いたり、史料を探したりの活動を重ねてきました。そうした取り組みのなかで、城の解明につながる古文書や「川欠け図」が見つかりました。徐々に「実態」が浮かび上がり、「長沼城」の姿を示す縄張り図(城の位置や規模、構図、配置などを描いた図面)を作ることができました。その研究成果を『長沼城の研究』にまとめて発行しました。

歴史研究会などが作った史跡巡りマップ 
史跡巡りマップの中面

埋蔵文化財調査で「長沼城」が現代によみがえる

被災後、千曲川堤防に付随する形で住宅側のりんご畑に大量の土を積み上げ、国交省によって「防災ステーション」が建設されることになりました。全壊した長野市の長沼支所は、この防災ステーションが完成してから、その上に建設されます(現在はプレハブの仮設)。そして、再び千曲川がどこかで決壊したとき、このステーションの土を運んで応急処置として利用されるという役割も担っています。「長沼城」のあったエリアは、この工事によって数メートルの高さの防災ステーションで埋まることになります。

防災ステーション建設にあたり法律に基づく埋蔵文化財調査が必要となりました。いま長野県埋蔵文化財センターによって調査が進められています。堤防近くの守田神社に保存されていた資料は災害で社殿とともに流失してしまいましたが、長沼歴史研究会が発行した『長沼城の研究」』に復元図が記録されていたことから、これがベースとなって調査が進められています。研究会の調査活動の成果が、「長沼城」の存在を公的に明らかにする今回の調査へとつながったのです。調査にあたっている専門家は、長沼歴史研究会がまとめた「長沼城跡復元図」とほぼ一致した状態に現場はなっていると報告しています。復元図の「正確さ」にお墨付きを与えました。

埋蔵文化財調査の現場(防災ステーション建設予定地)
「長沼城」の配置と周辺の侍屋敷

地域のお宝である「長沼城」に理解と関心を

埋蔵文化財調査に生かされたのは、それまでの研究の成果が実を結んだものです。地域の歴史である「長沼城」について住民にもっと関心を持ってもらいたいと歴史研究会は考えました。貴重な出土品を埋蔵文化財センターが公開したことから2021年5月、研究会は穂保希望のつどい実行委員会とともに長野市教育委員会の担当者を招いて話を聞く「試掘報告会」を開催しました。関心は高く、50名を超す住民が参加しました。さらに、より多くの人に知ってもらうため、研究会は出土品の写真を載せたクリアファイルを作りました。「長沼城」の存在は、地域にとって「歴史的なお宝」です。長沼の魅力につながります。だから多くの人に知って欲しかったのです。

試掘調査報告会(2021年5月))
試掘調査で見つかった出土品
クリアファイルで「長沼城」をアピール

歴史の一コマ一コマを、後世に遺す活動

被災2年目の2021年10月に開催された「追悼・復興・感謝のつどい」に際して、歴史研究会は地域の姿を遺す絵はがきを制作しました。「被災で消えたもの」「今後変わっていくもの」に特化し、地域の様子を後世に遺せるよう8枚組の絵はがきにしました。完成した絵はがきは、「つどい」の参加者に記念品として配布されました。「つどい」の開催に協力してくれた団体やお店には、額に収めて贈呈されました。

この「つどい」のとき、ウォークラリーを実施しています。災害復興の対策で地域の風景がどんどん変化していきます。そこで、地域の風景を目にしっかりと焼き付けておこうとの趣旨でした。これも歴史研究会としての提案でした。絵はがきの制作と同様に、歴史の一コマ一コマを記憶に「遺す」という視点が、ここにも強く出ていました。

ウォークラリーのゴール
8枚組の絵はがきを額装して贈呈

災害記録を本にして後の世に伝えよう

そして今春 (2022年)、長沼歴史研究会は被災記録『千曲川堤防 決壊』を発刊しました。被災記録を製作しようと思った理由を研究会の笹井妙音(たえね)会長に聞くと、「この大災害は地域の歴史の一コマであり、研究会の役割として記録にして後世に遺す必要があると考えた」との返事でした。ここでも、後世に「遺す」という視点が現われていました。

二つ目の動機になったのは、過去に何度も川欠け(決壊)があった同じ場所で今回も決壊したことへの驚きでした。「長沼城」の研究で知った「川欠け」の原因がわかるかも知れないと考えたのです。調べるなかで、いろいろなことがわかってきました。そこで、これからの治水対策を考えるうえで、研究の成果を記録に留めて後世に伝える必要があるとの思いが、メンバーのなかに募っていきました。

守田神社に保存されていた大事な古文書が、今回の被災で流されてしまいました。手元にあった過去の「水害の記録」も併せて掲載し、記録することで消滅しないようにしたいとの思いも動機になったとのことです。

災害についての捉え方は、立場や研究者によって様々です。災害の実態とともに復興の経過を記録し、加えて研究者の見解や住民の体験・意見も載せることにしました。これらもすべて後世に伝えるためです。

災害記録『千曲川堤防 決壊』の表紙

住民目線で取り組んだ考察「もっと必要な堤防高」

災害記録は全部で7章からなり、最初の章に国交省の説明と3人の防災研究者からの提言を載せました。▽国交省の緊急治水対策、▽新潟大学のト部厚志氏の考察、▽地質コンサルタント・技術士・博士の塩野敏昭氏の見解を、この章で知ることができます。続いて地域リーダーの章を設け、長沼復興対策企画委員会の柳見澤宏委員長、令和2年度長沼地区住民自治協議会の西澤清文会長の寄稿を掲載しました。

そして第3章が「記録」のメインであり、研究会としての考察を展開しています。決壊の原因を「地形」「浸透」「越水」の各項で記述し、令和3年8月の豪雨小規模洪水ラインから考え得る防災対策として、現在示されている国の方針より堤防を高くする対策の必要性を明確にしました。国の計画の強化堤防ラインでは不十分であることを、調査に基づく図面を用いて説明しているのです。この章に40ページを割いており、全体128ページのうち3割以上を占めています。単なる「記録」ではなく、そこに住む住民として重要と感じていた対策を後の世に伝えたいという意図を読み取ることができます。

次の第4章からは、「復興の取り組み」「住民の証言」「長沼の水害史」「被害状況と生活支援」を載せました。

笹井会長は「記録」特徴を次のように説明します。「公的な機関でも調査結果などを記録として出していますが、私たちはここに生まれ育って、地理や地形を知っている者として決壊を見つめ、地域住民の目線でまとめました。そこに行政が出した記録との違いがあると思います。同じ場所でなぜ切れたのかを私たちなりに考察した内容です」

災害記録のもくじ ①
災害記録のもくじ ②

「なぜ、ここが…」現場を歩いて感じた疑問を探求

被災直後は自分の家と家族のことで、住民はみんな余裕がありませんでした。3カ月を経た2020年1月11日、研究会は決壊の現場を歩く会を催しました。約30人が参加し、午前中は堤外(河川敷)、午後は堤内(住宅側)をつぶさに見て回りました。まだ仮堤防しかなく、決壊現場の様子がよくわかりました。500年の歴史が刻まれた長沼城時代の土塁跡「天王宮」は何の被害もなかったことを知りました。天王宮から北側(下流)が越水していました。守田神社近くの堤防が70mにわたって決壊しています。その現場に立ち、「なぜ、この場所が越水し、切れたのか」という気持ちがふつふつと湧きました。その疑問はなかなか解けず、当初は謎が多いままでした。

歴史研究会はたびたび現場を歩き、検討会を開き、考察を続けました。国交省千曲川河川事務所の担当者の話も繰り返し聞きました。その後、決壊現場は80㎝の越水があったことを国交省は明らかにしました。でも、なぜ80㎝も越水したのかについては伏せたままでした。「決壊場所の堤防が他と比べて低かったのでは」との質問に返答はありませんでした。低かったことを認めたのは、2021年1月になってからでした。では、なぜ低かったのか…。

研究会のメンバーの中に土木の仕事をしてきた専門的な知識を持つ者がおり、国交省の見解が出される都度、それについての疑問をみんなで話し合ってきました。「その場に何度も行くからこそ見える景色がある」と笹井会長は言います。そうしたなかで、自分たちは専門家ではなく素人であって推測の域を出ないかもしれないが、みんなで協議してきた見解を記録にとどめ、今後の治水対策に生かせるようにしようとの気持ちが膨らみました。

繰り返しの検討会
話し合いは長時間に及ぶ
調査結果を図面に落とす

写真・図版を多用して理解しやすく

編集作業は2021年12月から精力的に進め、写真や図版を多用することにしました。被災から1年後の2020年10月、地域の人たちに広く呼び掛けて被災写真を集め、研究会として「被災の写真展」を妙笑寺で開催しています。そのとき500枚の写真を飾っており、この中から選んで使用しました。

決壊直後の濁流が波打って住宅地を襲う様子や、山と積まれた長沼公園の災害ごみの実態は映像で見られるようにし、YouTubeにつながるQRコードを載せました。各章の扉の写真は被災直後から復興に向かうまでの堤防の変化がわかる写真を順番に載せる工夫をしています。最後の第7章の扉写真は、長沼公園に仮移植された「桜づつみ」の桜の花が咲いている光景です。

「長沼の水害史」のページでは、天保8年(1837年)~天保12年(1841年)の川欠け図を掲載。蔓延元年(1860年)の城跡川欠け図では、今回の決壊がほぼ同じ場所で起きていることがわかります。これらは後世に伝えることができる貴重な資料と言えます。

末尾に『氾濫』を題材にした長沼十哲会のみなさんの俳句・短歌を掲載しました。最終のページは、流されて現存しない守田神社の、かつての「祭り風景」の絵で飾っています。これは大谷悠治氏が8カ月をかけて描いた作品です。

地域に根付いた活動で後世に貢献

地域を知り、地域の在り方を考えようとする研究会の基本的な姿勢が、今回の災害記録を世に生み出す力になりました。そこには、自分たちが住む地域を愛し、自分たちで良くしていこうという気持ちが示されています。『長沼城の研究』でも、今回の「災害記録」でも、地域に根付いた地域住民による研究会であったからこそ成し得た活動であり、その「成果」を後の世に伝えることが可能になっていると言うことができそうです。

長沼の被災から防災の教訓を見出そうと、さまざまな研究者が、いま長沼地域に足を運んでいます。「災害記録」は、そうした人たちに強い関心がもたれており、問い合わせが届いているそうです。

だが笹井会長は、「自分たちの住む地域の防災の在り方を考えるために、何よりもここに住んでいる地域の人たちに読んでもらい、自分たちの地域の今後をみんなで探るきっかけにして欲しい」と話しています。自分たちの地域を安心して住める場所にしていくには、自分たちが行動しなければならないという思いが強くあることを、取材していて強く感じられました。

研究会は毎月定期的に実施している
絵はがき用の写真選びで意見交換

長沼の災害記録『千曲川堤防 決壊』
 A4判 128頁 オールカラー  頒価 1,500円
購入希望者は 長沼歴史研究会事務局へfaxで申し込む(026-266-0868)。

 
 

取材・執筆 太田秋夫(長沼歴史研究会会員・ナガクルソーシャルライター)