災害から2年半、住民主体で復興に奮闘する「穂保希望のつどい実行委員会」の記録

令和元年(2019年)10月13日の東日本台風で千曲川が決壊し甚大な被害が出てから2年半余。決壊の直撃を受けた長野市長沼地区の被災住民は、いま暮らしを徐々に立て直し、復興に向けて突き進んでいる。その過程のなかに、住民有志が困難を乗り越え、力を合わせて奮闘してきた取り組みがあることをレポートする。

有志住民が復興活動を始める

長沼地区の世帯数は793戸、人口は1,976人(2022年4月現在)である。大町、穂保、津野、赤沼の4つの区から成っている。決壊は穂保地籍で起き、決壊場所に近い穂保区内町や隣接の津野区では特に被害が大きく、津波のような水流で押し流された家屋もあった。長沼地区全域に大量の土砂が流れ出たのが、今回の水害の特徴だった。復旧のためには、水が引いた後、土砂の搬出が大変な作業として待ち構えていた。被災住民は避難所での生活(12月3日まで)、また親戚や被災家屋2階での暮らしを余儀なくされた。全国各地から長野市へ約7万人のボランティアが駆けつけ、泥出し作業に従事した。ほかにもリンゴの木を救う農業ボランティアや長野市社会福祉協議会の災害ボランティアセンターを経由しない友人・親戚ボランティアも多数おり、実数はもっと多い。家を失った被災者は避難所が閉鎖されてから、仮設住宅に移っての不便な暮らしが続いた。

 ※長沼地区の被災直前の世帯数は902戸(109戸減)、人口2,319人(43人減)で、現在は戸数も人口も減少している。

被災した長沼社会体育館
特産のりんごの木が大打撃
全国からかけつけた災害ボランティア

さまざまなNPOや支援団体の応援を得ながら、被災住民は不安のるつぼの中で毎日の疲れを乗り越えながら、それぞれ生活再建を模索する。被災当初は隣近所の人たちと話をする余裕もなく、暗中模索の日々が続いた。そうした中で、「みんなで集まって元気を出そう」との動きが穂保区の中で生まれた。
暮れが迫る12月下旬、泥に埋まっていた穂保研修センターを整備して中に入れるようにし、そこで「クリスマスコンサート」を実施した。みんなで歌って元気を出した。それは有志住民による「復興活動」の出発であった。「希望のつどい」という名前は、このときに生まれた。

被災まもなく実施した住民による初めてのイベントのお知らせ

集まって交流する場を設けよう

年が明け、被災から4か月目の2020年2月、被災住民の気持ちが少しずつ落ち着いてきたことから、有志住民は区の役員や赤十字奉仕団、福祉推進員などに呼びかけ、また支援に入っていたボランティア団体の協力も得て「つどい」を開催した。健康についての講話や体操、歌声、炊き出しなどを行なった。自宅に戻れず地域を離れていた人たちも参加し、そこは「区民の交流の場」となった。長沼地区を応援している人たちとのつながりの場ともなった。住民の要望や意見を吸い上げ、住民自治協議会や復興対策企画委員会、また行政へとつなげる役割を果たすこともできた。

そして3月、こんどは映画の上映会を企画した。誰にも親しまれていて、みんなが元気を出せる映画として「寅さん」を選択した。映画会社とも相談して準備が順調に進み、多くの住民は上映の日を楽しみにしていた。3月から4月にかけて、地域一帯にはりんごや桜の花が咲く。4月中旬の日曜日には、さらに次の企画も準備。「花見のつどい」をすることにした。

ところが2月下旬頃からコロナの感染が広がり始め、一堂に集まるのが厳しい状況になってしまった。悩んだ末、映画上映会の実施は断念した。でも、4月に企画した花見がある。それに期待をかけた。だが、願いむなしく、コロナ感染の拡大は収まることがなく、またも開催中止を余儀なくされてしまった。

復興に向けて被災住民に必要なのは何よりも「交流」だった。被災した家の再建をどうするか。生活をどう立て直すか。千曲川が再び決壊する危険はないのか…。住民同士で情報を共有したくても、コロナ感染拡大のために、その機会が奪われていた。住民自治協議会の復興対策企画委員会が、千曲川の水害対策や防災ステーション設置などについて住民の声を聴く取り組みをしても、住民同士が話し合う場がない。「不安」の解消に不可欠な交流の場がもてないのだ。千曲川の災害対策が十分かどうかに確信を持てず、地域を離れる決断をする人も出てきた。コロナ感染拡大は、台風によって被災した地域に追い打ちをかけていた。眼には見えにくいが、それは「二次災害」とも言えるものであった。

映画上映も花見も、コロナ感染拡大で中止に

サロンの場づくりと「復興タイムズ」の発行

自分たちの力で復興に向かって突き進む道を模索する有志住民は、この活動の母体を「穂保希望のつどい実行委員会」と命名し、コロナ感染拡大に屈することなく活動を続ける。この時期、二つのことを検討した。地域住民の寄り場である穂保研修センターは修復再建をする必要があり、しばらくの間は使用できなくなる。そこで、住民がいつでも気軽に利用できる「たまり場」を新たに設けることを考えた。場所を提供してくれる住民が見つかり、被災した部屋の修復は「大工系」のボランティアがかって出てくれた。〈お休みどころ〉ならぬ「ほやすみ処」と命名することにした。

住民交流の拠点は7月5日(日)にオープンした。約70名の住民が駆けつけて祝った。コロナ感染拡大は徐々に収まりをみせていたことから、この場所を利用してのサロン活動が可能になった。抹茶を楽しむ会(月3回)、ずくだせクラブの体操(月2回)、歌う会、一茶の句と絵の展示などが行なわれていった。常会やさまざまな交流会、打ち合わせの場としても使われた。

地域の拠り所がオープン
みんなで祝い復興を願って語らう

もう一つの試みは、住民に情報を伝える「復興タイムズ」の発行である。住民の声や動き、情報を伝えることが復興への道につながるとの思いから編集制作し、区の配布ルートを活用して全区民に届けることにした。7月に第1号を発刊。以後、毎月定期的に発行を続けている。(「復興タイムズ」の活動は、ナガクルに寄稿済み) 

こうした活動の根底にあったのは、被災住民同士が情報をシェアし合い、交流を深めながら、これまでの「日常」を取り戻したいという願いであった。地域のコミュニテイーを復活させることが、被災地においては何よりも求められていたのだ。

「復興タイムズ」の編集会議
毎月定期的に発行を継続

子どもたちに夏まつり、ボランティアに感謝のりんご狩りイベント

突然の被災で、子どもたちの精神的負担は大きく、ストレスもたまっていた。思い切りの楽しさをプレゼントしたいと考え、「夏まつり」をやることにした。たくさんの人たちが集まれる場所として「穂保高台避難公園」を会場とした。ここは被災時、多くの住民が避難した場所である。子どもたちに人気のある踊りで体を動かし、支援団体の協力で綿あめ、スーパーボールなどの縁日を用意し、子どもたちが久々に楽しんだ。辺りが暗くなってからは、一人ひとりが花火を手に、夏の夕暮れの思い出を胸に刻んだ。

この8月2日(日)開催の「夏まつり」は区との共催で実施している。交通安全協会や消防団の役員をはじめ、地域の団体が運営にかかわった。実行委員会だけでなく、地域に呼びかけて「協働の力」で実施したのである。長沼地区で活動しているグループの「こまち太鼓」や穂保区の獅子も登場し、この時間帯は被災前のいつもの地域の姿が戻ったかのようであった。子どもたちにも、大人にも笑顔が広がり、被災からまだ10か月足らずであったが、被災のことをいっとき忘れ、また力を合わせてこれから乗り越えていこうという気持ちを抱かせてくれる貴重な時間となった。

スーパーボールすくいに興じる
ゆかた姿で踊る子どもたち

穂保希望のつどい実行委員会は、その後も精力的に活動を続けた。秋の十三夜祭に協力し、りんごの収穫期を迎えた11月29日(日)は「ボランティアさんありがとう! りんご狩りイベント」を実施した。青年海外協力隊OB会、穂保区、希望のつどい実行委員会の3者共催で、ボランティアに来てくれた人たちに感謝の気持ちを伝えた。りんご狩りのあと、参加したボランティアたちは河川敷から堤防を歩き、地域の中を回って被災から1年後の様子を自分の目で確認した。泥で埋まっていた地域は、何事もなかったかのようにきれいになっていた。支援に入った家がどのようになっているかを気にかけるボランティアの姿もあった。

年が明けて2021年、被災から2回目のお正月である。通常だと、1月は育成会が中心になって各区でどんど焼きが行なわれる。この年は、コロナ感染拡大のリスクもあり、育成会としてはどの区も2020年に続いて通常の活動ができない状況にあった。穂保希望のつどい実行委員会は1年のスタートにあたり、年中行事を何としても復活実施したいと考え、六地蔵町氏子の協力を得てコロナ感染に配慮しながらどんど焼きを実施した(1月11日)。これまで恒例で実施されていた地域の諸行事の復活であり、それは地域に希望を与え、復興へと進む力になった。

災害ボランティアに向けた感謝のりんご狩り
りんご狩りのあと復興の状況を見て周る
どんど焼きを復活
餅を焼いて1年の健康を祈る

「オール長沼」の担い手としても

被災から1周年となる2020年10月、この節目のときに長沼地区住民が一堂に会し、復興への思いを確認し合いたいとの声が住民の中から出ていた。住民自治協議会としては役員を中心とした「座談会」を1周年の事業として検討していた。穂保希望のつどい実行委員会は、この機会に住民が集まって、追悼と復興への気持ちを高め合うイベントを行なう必要があると考えた。みんなで心を一つにする場が欲しかったのである。

津野区にも住民が中心になって復興に向けた活動をしている津野復向隊というグループがあり、その中の女子会は活発な動きをしていた。その人たちも同じ思いでいた。長沼支援会議(支援団体や住民団体が活動の情報を共有する場)のときに住民が一堂に集まれるイベントの実施を提案し、「オール長沼」として実施することが確認された。赤沼区や大町区の人たちもメンバーに加わって、イベントを実施する体制が整った。仮設住宅にいる高齢者の参加については社会福祉協議会が送迎することになった。

大空に感謝の風船を飛ばすこと、住民の手による「手形アート」を作成して復興のシンボルにすること、東北中学校吹奏楽部の金管八重奏演奏と穂保区出身の塚田尚也さんが作曲した「もう一度あの場所へ」を塚田さん自身に演奏してもらうことなどを内容として決めた。この一大イベント開催にあたり、穂保希望のつどい実行委員会は会場設営などを全面的に担った。手形アートは各区や学校を回り、300人の住民が手形を押して完成した。

自分たちの住む穂保区だけでなく、長沼地区全体の復興の盛り上げをどうするか、それに向けた活動をどう進めていくかは、穂保希望のつどい実行委員会のメンバーの問題意識として常にあった。長沼地区全体の取り組みでも、実行委員会はイニシアチブを発揮していたのである。

1周年のつどい こまち太鼓の演奏
1周年のつどい 金管楽器の演奏
感謝の風船を大空に飛ばす

被災直後の復旧活動の延長線上に

穂保希望のつどい実行委員会の活動を牽引しているのは共同代表の芝波田英二さんと土屋栄美子さん、「復興タイムズ」編集長の住田昌生さんである。穂保区には区組織として5つの常会があり、芝波田さんと住田さんは被災当時、常会長を務めていた。災害復旧で全国から災害ボランティアがかけつけたとき、受付は長野市社会福祉協議会が設置した災害ボランティアセンターが担い、現場での活動の取り組みは外部から応援に入った災害対策に詳しいNPO・NGOの人たちだった。だが、外から入って来たボランティアが各家々に入って活動をするためには、被災住民とボランティアとの間に入ってコーディネートする人が不可欠であった。その役割を背負ったのが、常会長であった芝波田さん、住田さんである。二人は、まさに被災直後から住民の生活再建を果たすための取り組みを寝食忘れて行なっていたのである。希望のつどい実行委員会の諸活動は、その活動の延長線上に出来上がっていったと言っていい。そして土屋さんは民生児童委員をしており、住民の困りごとの相談に乗るポジションにいた。

「復興タイムズ」の制作に自らの特技を生かしている杉田威志さんも実行委員会の役員の一人だが、実は穂保区の住民ではない。被災時、支援ボランティアとして芝波田さんとともに住民の復旧活動のコーディネートにあたっていた。そのつながりのなかで今日に至るまで継続して穂保区の活動に参画している。被災直後から炊き出しや救援物資の提供などの支援活動をしてきたHope Apple(穂保被災者支援チーム)も役員として実行委員会に加わっており、イベントの運営などを側面から支える役割を担っている。このように、被災直後からの復旧・復興活動が現在の穂保希望のつどい実行委員会の「前史」となって今日に至っている。

こうした役員の布陣に加え、穂保区の役員も実行委員会のメンバーになっている。イベントの開催に際しては有志住民による活動ではあるものの、区との共催という位置付けにするなどの配慮をしてきた。こうした体制と配慮が、安定した活動を継続する力になっていると言えよう。

りんごの郷駐車場に設置された災害ボランティアのサテライト
泥出し作業を終えてサテライトに戻り一息をつく

さまざまな復興課題にも取り組む

被災地には復興に向けた課題が山積している。その一つが、耕作ができなくなった畑の草取りをどうするかである。地域を離れてしまったり、高齢で管理ができなくなったりして、草が背丈にまで達するほど伸びている所が至るところに出てしまった。この問題を解決する仕組みとして、草刈りを依頼する人と有料ボランティアとして草刈りをする人とを登録制で結びつける「長沼ワークライフ組合」を住民が自主的に立ち上げた。長沼地区住民自治協議会の元会長西澤清文さんを代表として活動している。これも復興に向けた住民の自主的な取り組みであり、希望のつどい実行委員会と組織は別だが、芝波田・土屋両共同代表は、こちらの活動にも精力的に取り組んでいる。組合の事務所は「ほやすみ処」に置いている。

また、支援団体の情報共有の場となっている長沼支援会議にも結集して、他の区の住民グループや支援団体との連携にも力を入れている。

昨年からことしにかけての諸活動

ラジオ体操・ウィークデイ散歩を始めたのは昨年の3月。10月いっぱいで年内は終了し、ことし3月に再開した。

夏まつりの2回目は昨年8月2日の実施で、縁日の内容も充実。学生ボランティア(地域まるごとキャンパス)の応援もあった。長沼歴史研究会との共催で、長沼城跡試掘報告会も行なった。地域の歴史・文化に関心を持ってもらうための取り組みだった。2周年の「追悼・復興・感謝のつどい」では前回に続いて会場設営等を担当した。12月にはクリスマスコンサートを行ない、サックスフォンの生演奏を住民に堪能してもらった。

年が明けて、被災後3回目のお正月。すべての区で育成会主催のどんど焼きが復活した。前年独自にどんど焼きを実施した希望のつどい実行委員会は、ことしは主催の育成会に協力する形となり、この日はどんど焼きに先立って被災写真のお焚き上げを行なった。損傷が激しく、また引き取り手がない写真やアルバム等を、神官のお払いのあと焼いた。

4月に入り、長沼城跡の象徴となっていた天王宮が防災ステーション建設のために撤去されることから、その場所で記念写真を撮るイベントを行なった。常会ごとに並び、プロのカメラマンに撮影してもらった。思い出に残る記念写真となる。

長沼城跡試掘調査の報告会
サックスフォンの生演奏を楽しむ
天王宮での記念撮影イベント

希望のつどい実行委員会は、住民にとって何が必要かをその都度考え、復興への道を歩んでいる。ことしの総会を4月3日(日)にほやすみ処で開催し、今後の活動について話し合った。区長をはじめ区の役員、常会長の出席もあり、2022年度からは穂保区の協力団体として公式に位置付けられたことが報告された。

復興への道程はまだまだ続く。各世帯の生活再建の進捗度合いに差が出ているのも現実である。そうしたなかで、希望のつどい実行委員会は、住民にとって「希望の光」となり歩を進めている。住民自治協議会のなかに2022年度、新たに「まちづくり委員会」が誕生した。住民の叡智を結集して長沼地区の復興をめざす組織である。穂保希望のつどい実行委員会は、こちらへも代表を送り、地域組織と深くむすびつきながら活動していくことにしている。

2022年4月の実行委員会総会
総会であいさつする穂保区の中山澄雄区長

被災者同士のつながりと明日への希望

被災者の気持ちは被災者が一番よくわかる。被災から1か月後の12月上旬、長野市より1年3か月前に被災した岡山県真備町の被災住民とボランティアが長沼地区へ激励に入った。「いまはつらいだろうけど、笑顔で朝を迎えられる日が必ず来ます」との言葉を贈った。ことし1月、兵庫県丹波市の被災者・ボランティアと長沼住民とのZoomによる交流が行なわれた。被災地の高齢者のためにお弁当を作り、イベントで被災体験を伝える活動をしている「ぽんぽ好」のみなさんの活動を長沼の人たちが知った。こうした被災者同士の交流は、復興に向けた気持ちを鼓舞してくれる。

復興とは「日常」を取り戻すこと

穂保希望のつどい実行委員会の活動は、被災地の復興という課題において、どのような役割を果たしてきたのであろうか。筆者は被災後、スタンドアップ・ル実行委員会の活動として、被災という「暗闇からどう抜け出すか」をテーマにメンタルサポートの活動を行なってきた。クライシス(危機)のときのサイコロジー(心の状態)を理解してもらうための取り組みであり、被災したときの心理状態と回復するための方策の伝達である。その理論と穂保希望のつどい実行委員会の活動を照合したとき、まさに被災者の心理状態を回復させる活動になっている。

被災したとき、人はそれまでの日常の「まあ何とかなるだろう」という感覚を失い、世界(住んでいる社会)への信頼感(期待感)や自分への信頼感を喪失した心理状態に陥る。世の中というのは、突然にとんでもない事態が起きる危険があって、簡単には元に戻らないという不安や、自分の力では簡単に事態を乗り越えられないという絶望感に襲われてしまうのだ。その心の状態から抜け出すためには、自分と世界への信頼感を取り戻す必要があり、そのためには「日常の生活」を回復する必要がある。それが復興への道程となる。

復興は以前の「日常」に戻り、新たな生活基盤を未来に向けて築くことである。外から与えられるものではなく、被災住民自らが自分の力を信頼し、前へと歩みを進めていくことと言える。そのことから「復興の取り組みは、被災住民の手で行なわれるもの」と説明されるのだ。被災住民同士が力を合わせることが不可欠であり、その動きの先頭に立つ人がいるかどうかが大きなカギを握っている。穂保希望のつどい実行委員会が被災地長沼の復興に大きく貢献していることを、クライシスサイコロジーアドバイザーとして強調したい。

本レポートの最後に、被災者が被災者を応援し復興をめざす現場の実際を、映像で紹介する。

長沼地区での被災から1年も経たない令和2年7月、熊本県で豪雨による水害が発生した。そのとき、穂保希望のつどい実行委員会の芝波田英二さんと住田昌生さんは、他の被災者2人とともに、いちはやく熊本のみなさんを同じ被災者の視点から応援するメッセージを送っている(2020年7月 制作はHope Apple)。どんな気持ちで復興への道を歩んでいるかを生の声として知ってもらうことができるであろう。

取材・執筆 太田秋夫(ナガクル ソーシャルライター、クライシスサイコロジーアドバイザー)