Myストーリー 寺田ユースケさん@寺田家TV

「長野のために何かできないだろうかーー」。ハツラツとした言動と、人なつっこい笑顔、遠くまで通る声。車イスのユーチューバーでタレント「寺田ユースケ」さん(32歳)。取材協力してくれた「長野県社会福祉協議会」の事務所に入ると、あっという間に寺田さんの周りに賑やかな人の輪ができた。

「会いたかったー!」と最初に寺田さんに車イスで駆け寄ったのは、職員でミュージシャンの川崎昭仁さん(写真右)。パラリンピック閉会式でギター演奏するなど全国に友人を持つ川崎さんは、「あの、寺田ユースケが長野に越してきたらしい」との情報を得ていたという。

「アイツが来たら、なんか楽しいことが起きるぞー」と予感させる寺田ユースケさん。その魅力に迫ってみたい。

左が寺田ユースケさん、右が川崎昭仁さん(県社協職員・ミュージシャン・NPO法人ヒューマンネットながの理事)

YouTube「寺田家TV – サイボーグパパ」が10万人のフォロワーに

寺田さんがこれまで活動してきた東京から、妻の実家である長野市に移住したのは2021年の夏。コロナ禍で約1年の間、子育てをしながら、自宅でYouTubeの番組編集に打ち込む毎日だったという。「移住してみて、長野の人はみな温かい。このままここに骨を埋めたいと思うくらい。これからは、地域でたくさんの人に会って、元気な長野に貢献できれば」と意気込む。

YouTubeチャンネル「寺田家TV – サイボーグパパ」は、10.1万人のフォロワーを誇る。2018年からスタートし、約15分の動画を週3-4本とコンスタントに配信。トータル約400本となっている。

脳性まひ(足が不自由)の生活を赤裸々に描く内容で、「障がい者の性」について明るく迫った動画では900万回も再生されている。また最先端のリハビリ器具で立ち上がれるようになる過程を描いた動画は411万回、1歳の我が子のワンオペ中に火災警報器が鳴り必死で避難した動画が333万回再生。これらの動画を自らプロデュースしているのが寺田ユースケさんだ。

YouTubeチャンネル「寺田家」

そして、2022年春からは寺田さんの妻、まゆみさんがスピーカーとなった。「障がい者の家族の視点から発信することで、もっとたくさんの人の共感を得られるのでは」と話す。あくまで、「ありのままに前向きに」をテーマとし、障がいや車イスでの生活・仕事で困っていることなどを取り上げている。障がい者のチャンネルというよりも、たまたま障がいがある夫がいる妻の視点で、一緒に暮らす中で起きてくる問題やハプニングなどをありのままに見せるチャンネルだ。

移住をきっかけに「株式会社ステアーズ」をまゆみさんが代表となって起業。 動画制作、講演、イベント出演 、インフルエンサーマーケティング支援など、妻と二人三脚で「寺田ユースケ」のタレント活動を中心に事業をスタートした。

脳性麻痺を背景に、暗い青春時代をおくる

寺田さんは愛知県名古屋市出身。脳性まひによる生まれつきの障がいで、首から下にまひがある。高校までは車イスは使わず自力で歩いて生活をしていた。

両親の方針で、普通の小学校に通ったため、障がい者はクラスで寺田さん一人だった。「自分が障がい者だという自覚が芽生えたのは、小学校低学年の頃の50メートル走だった。自分だけ60秒以上かかり、クラスメイトとは歩き方も違うことを意識した。それ以来、自分で鏡を見たり、足をひきずって歩く姿を人から見られるのがなんとなく嫌になった」と話す。「ずっと根暗な性格だった。教室の片隅にいるタイプ」と寺田さんは子ども時代の性格を振り返る。

最初の転機は4年生の時に訪れた。父が中日ドラゴンズファンで野球好きだったことで、部活に入って当然という暗黙のルールがあった。しかし、部活の申し込みがスタートした時「チームに迷惑がかかるし、不自由な足では、友達と野球をするのが難しいのでは」と思い悩み、入部届を出せずにいた。すると「だいじょうぶだよ。俺たちが代わりに走るから、一緒にやろう」と友達が背中を押してくれたのだ。以来、高校まで野球を続けることに。

2番目の転機は、高校時代だった。硬式野球部に入部して間もなく、朝昼夜の過酷な練習についていけなくなった。ある日、スコアラー(記録係)への転向を監督から勧められた。ショックを受けながらも納得がいかなかったという。

寺田さんの父は若い頃ラグビー選手、母は剣道にダンスにと運動能力の高い両親の元に生まれ、走ること以外は決して人に劣っていなかったからだ。時速120キロのボールを投げ、遠投は60メートルにも達していたのだ。「足さえ悪くなければプロになれたかも」と自信ありげに語る寺田さん。でも現実はーーレギュラーになれなかったのだ。

帰宅後、スコアラーになれと言われたのがショックで、イライラが爆発。作ってもらったチャーハンを母に投げつけて、「なんでこんな身体に産んだんだ!?」と、くってかかったのだ。

「ごめんね」と、ポツリと言いながら、割れた皿を片付ける母の背中が今でも忘れられないという。

車椅子との出会いが、お笑いへの道を開く

野球に没頭しながらも、小学生から高校生時代まで、教室では割と目立たない存在だったという寺田さん。でも一方で、TVバラエティが好きで芸人に憧れる側面もあった。「まさか、将来、芸人になるとは当時は思いもしなかった」と笑う。

「(人に)笑ってもらいたいと強く思ったのは、大学生の時だった」と語り始める。関西学院大学に進学した寺田さんは、相変わらず下を見て歩く自分の姿がいやでたまらなかった。そんな様子を見かねた両親から「車イスに乗ったら?」と提案される。「当時、20歳の僕は車椅子に乗ったら、障がい者になっちゃうじゃないか?!」と自分の中で葛藤した。

しかし、車イスに乗ってみたら、人生は大きく変わったーー。

「汗も出ないし、息もきれない!」。それまでは転ばないように、下を向いて歩くことに集中し、体も心も消耗していたことに気が付いたのだ。「車イスに乗って、ゆったりと移動しながら上を向いたら、こんなに空が青いんだ! こんなに周りの景色が綺麗だったんだ! ってね(笑)」。まさに青天の霹靂(へきれき)だ。

そして、車イスとの出会いが、寺田さんに更なる変化をもたらした。「服装も小綺麗にするようになって、気持ちもどんどんポジティブになれた」と、うれしそうに語る。

そんな折、たまたま出会ったのがお笑い好きのゼミの友達だった。飲み会で、車イスに乗る寺田さんに向かって「あれ! それ 飲酒運転ちゃうの?!」「(車イス押したら)それって、飲酒運転ほう助罪やん?!」。周りにドッと笑いが起きるーー楽しかった。

以前は、障がいのことで友達にいじられるのがすごく嫌だったのに、なぜかその場の空気に心地よさを感じたのだ。「ユースケ面白い!」という空気がたまらなく嬉しいーー。「そうだっ! 多様性をテーマにしたお笑い、やれたらええなーって」。

英国留学で、コミュニケーション能力全開に!

2012年から1年間、寺田さんが21歳の時、イギリスのオックスフォードで語学学校に単身留学した。イギリスといえば、ブラックユーモアの国。チャップリンや寺田さんの好きなモンティパイソンなど世界的なコメディアンを輩出。

「1年で英語をしゃべれなければ帰れない」と心に誓った。教室では多様な人種のクラスメイトと出会う。ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ・アジアから来た学生に囲まれ、まさにインターナショナルな環境に身を置くことができた。寮ではスペイン人と同室だった。ラテン系のパーティーに参加したり、地域のイングリッシュパブでは、地元のおじいちゃんたちに手品を披露するなど、イギリス人とも親交を深めた。さらに、あの有名なオックスフォード大学にも友人たちとこっそり潜入!

気がつけば、いつも輪の中心に自分がいたーー。この時の経験は、(高校時代までは想像もできないほど)寺田さんのコミュニケーション能力がパワーアップし、確実に人生の土台を築いていった。

一方で、「イギリス社会は日本に比べ、障がい者理解が進んでいる」とも感じた。道路はデコボコで車イスにはつらい場面も多かった。でも必ず周りの人が駆け寄ってきて、ささっと持ち上げてくれたという。その躊躇(ちゅうちょ)ないスピード感ある行動に驚いたし、気持ちがよかった。

「日本では障がい者に対して遠慮がある。自分から声がけして頼まないと手伝ってもらえないことも多い」と寺田さんは思った。少なくとも寺田さんが留学したイギリスでは、この人はこういう人なんだと認めた上で、迷わず手伝うという土壌があったのだ。「障がい者も健常者も全員違う。大事なのは、人と人が向き合うこと」と実感する。

「日本で、もっとたくさんの人に自分が出会い、触れ合うことで、障がい者に対する理解を進められたら」と真剣に考えるようになった。

吉本興業でお笑い芸人で挫折し、ホストへ?!

帰国後、吉本興業の門をたたき、タレント養成所の36期生となった。「車椅子あるあるなど、当時は障がいをネタにしたお笑い芸人はそんなにいなかったから、チャンスだと思った」と語る。しかし、結局3年間がんばったが、なかなか芽が出なかった。家族の期待を裏切ってまで入った芸人の道。どうしようもない挫折感を味わい「人生終わった」とまで考えた。

そんな時、「新宿歌舞伎町のホストクラブで働かないか」と、作家でタレントの乙武洋匡さんから声をかけてもらった。「ホストクラブ=ヤクザの印象。東京湾に沈められるのかも(笑)」と、正直迷いながらも、乙武さんがわざわざチャンスをくれたんだからと、思い切ってその世界に飛び込んだ。

ホストクラブで「No.1の凰華 麗(おうか れい)さんとの出会いが、大きな転機となった」と話す。店の名は「SMAPPA! GroupのAPiTS(アピッツ)」。「車イスホスト・クララ」と名乗った。20人のホストの中で車椅子は寺田さん一人だ。「なぜか麗さんは、勤務の後、自分をタクシーで送ってくれたり、やき肉など食べに連れて行ってくれたり。そして車イスを押して堂々と街を巡ってくれた」という。ところが、そんな凰華さんの行動に寺田さんは「利用されているんじゃないか」と疑いを感じていたのだ。

だが、ある日それが思い違いだったことに気がつく。

スタッフ全員を前に、凰華さんがしたあいさつに衝撃を受けた。それは「クララ(寺田さんのホスト名)、ありがとう。実は、自分の姉が障がい者で差別やいじめに遭う姿を見てきたから、人ごととは思えない。ここを、どんな人にとっても、当たり前にセカンドチャンスが与えられる場にしたい」と。

彼は障がいのある自分に1ミリも偏見など抱いていなかったーー。

「一番偏見を持っていたのは自分自身だったんだ。人はお互いに知ることから、偏見は無くなっていくんだということに心底気付かされた」と目を潤ませる寺田さん。

全国行脚、千人に車椅子を押してもらう

2年後、ホストを卒業した寺田さんは、2017から2019年にかけて全国を旅した。その名も「HELPUSH(ヘルプッシュ)プロジェクト」という草の根運動だ。車イスを押してもらうことを通して、いろんな人に出会った。

長野県にも訪れ、善光寺で通りすがりの人たちに車椅子を押してもらいながら参拝した。3年間をかけて、508組、約1000人に出会った。

「ちょっと押してくれませんか? と言って巡る旅。助けてーって気軽に言える世の中にしたい」この気持ちをどうしたら多くの人に届けられるのかーー。そんな想いが共感を呼び、47都道府県に広がり、同時に「寺田ユースケ」という人間が全国に知られるようになっていった。

そして、講演会活動やイベント、TV番組にも出演するようになり、YouTubeでも話題になり人気が上がっていったのだ。

新しい仕事に挑戦しつつ、長野を元気に!

長野に移住して一年が過ぎ、今の寺田さんには二つ軸があるという。

一つは、この夏から新しい仕事に挑戦すること。CAMPFIRE(キャンプファイアー)というクラウドファンディングを運営するIT企業にフルリモートで社員として働くことになった。「何かに挑戦しようとする人が、お金に困らない世の中にしたい」と目を輝かせる。病気を乗り越えて何かに挑戦したり、地域の文化遺産を守るためのお金集めなどなど、ローカルな事業にフォーカスしたクラウドファンディングをプロデュースできればと張り切る。

長野県庁向かいの長野県社会福祉協議会の入口で

もう一つは、「自分の住む長野をもっと元気にしたい、そのためには長野のことをもっと知りたい」という想いをどう実現するかだ。「地元の祭りでも車椅子を押してもらい、出会いがあった。その人たちはみんな自分と気楽に接してくれた」と嬉しそうに語る。

この地で子育てをする寺田さん夫妻。「我が子は今、シャインマスカットに夢中(笑)。長野は果物や野菜が豊富で、水が美味しい。そして空気が浄化されているんじゃないかと感じる。ぜひ永住したい」。そのためにも、地域のタレントとして、講演会活動やTV・ラジオなどの番組にも出演できたらーーと夢は広がる。

「行政、社会福祉協議会、NPOの方々ともコラボして、福祉教育分野でも貢献できればうれしい。まず相談を。そして街で見かけたら、ぜひ車椅子を押してほしい!  長野でみなさんから愛される存在になりたいーー」と、満面の笑みを浮かべた。

最後に・・・川崎昭仁さんの談話

取材を終え、インタビューに同席してくれた川崎昭仁さんは、「全国の障がい者の活動家たちから、この1年、寺田ユースケが長野に移住したから、心強いねとよく声をかけられていた」と話す。今回ようやく出会うことができたのだ。「音楽」を通して自分のやりたいことを実現しつつ、長野県内で学校を回り福祉教育を推進してきた川崎さんにとって、まさに心強い存在となり得る。

「寺田さんの発信力で障がい者への理解を、共に進められればうれしい」。明るくて華のある寺田さんの人となりに触れて「ますます期待が高まった。ぜひ県内でも活躍してほしい」と言う。


「互いに知ることから偏見がなくなっていく」との寺田ユースケさんの言葉に共感する人は多いだろう。取材後、青空を見上げながら、「彼の発信をきっかけに、多くの人が出会い、互いに理解し合い、楽しく支え合える地域になることも夢じゃないのでは? 」と想いを巡らせた。

取材日/2022年7月29日(長野県社会福祉協議会にて) 文責・撮影/ 寺澤順子(ナガクル編集デスク)