2019年10月の東日本台風(19号)で千曲川の堤防が決壊し、長野市長沼地区一帯は浸水によって大きな被害が出ました。それから2年5か月が経過し、地域住民はいま力を合わせて復興に立ち向かっています。そんな動きの一つとして、決壊場所から300メートルほどに位置する全壊した古民家を修復再建し、そこを人々が集まる場所にしようという取り組みが進められています。
中心になっているのは、一般社団法人しなの長沼・お屋敷保存会(以下、お屋敷保存会)です。昨年4月、有志11名が拠出金を出し合って設立しました。古民家の利活用を核にして、歴史や文化、自然や建造物の景観の面から長沼の魅力を鮮明にし、その情報を発信することによって「まちづくり」という観点から復興の後押しをしようと活動しています。
※筆者はナガクルソーシャルライターでもありますが、お屋敷保存会の事務局長を務めていますので、活動について詳しく記事にしました。
大学院院生グループの調査で200年前の建物と判明
この古民家は穂保区に所在し、所有者は10代目当主の米澤啓史氏です。地域のなかでもひときわ広い敷地で、県道から飛び込んで来る様態はどっしりとした構えであり、重厚感にあふれています。屋根はもともと茅葺ですが、いまはトタンをかぶせています。
米澤家は明治時代、蚕種業を営み、北信地域一帯の養蚕農家に販売していました。そのときに使用していた2階建ての長屋門が道路に面して建ち、そのほかに土蔵が2棟(家財蔵、米蔵)、家畜小屋、作業小屋などの建物群があり、お屋敷保存会では通称として「米澤邸」と呼んでいます。
いつごろ建てられたものなのかは不明でしたが、信州大学工学部大学院建築分野の土本和俊教授が指導する院生グループが1年以上前から長期間にわたって調査し、このほど調査結果を野澤知佳氏が修士学位論文にまとめました。
その研究成果を地元の人たちに知ってもらおうと、お屋敷保存会では3月20日(日)、「修論」発表会を開催しました。Zoomでの配信も含め40名の参加がありました。
そのなかで、主屋の建設時期は1818年と推定されることが明らかにされました。いまから200年以上も前です。長屋門の創建については、天井に残された棟札(むなふだ)の墨書から1893年(明治26年)であることが明確になっています。こちらはおよそ130年前です。(棟札:建物の創建や修理に際して、その事実を木札などに記して棟や梁に打ち付けたもの。建造年月日、工匠の名前など)
主屋建設の年代が特定できたのは、屋根裏の柱に書かれた墨書や欄間絵に記された文字(戌虎秋日)、屋根を支える小屋組みの痕跡などからです。
支配者層の民家に見られる棟束(屋根の一番高い位置にある棟木を支える柱)が設けられていること、当初から間取りが6間になっていて坪庭(中庭)を見渡せる奥座敷があること(一般的には4間が多く、階層の違いが座敷の数に現れると言われている)なども裏付けとなりました。
江戸時代末期の1700年代後期から1800年代にかけて、米澤家の当主(3~5代)は史料から組頭、名主を務めていたことがわかっており、献金した記録も残っています(6~7代)。こうしたことから米澤家は有力な農民だったと考えられ、大きな主屋が建てられた時期と符合していたのです。
伝統構法による免震構造
お屋敷保存会のメンバーは、米澤邸が長い歴史を歩んで風雨に耐えながら今日まで頑強なたたずまいを見せていることに改めて思いを寄せましたが、さらに貴重な建物であることを認識したのは、在来工法とは異なる伝統構法によって「長寿」の姿を今日に示していることでした。
野澤氏は発表会で、茅や垂木(たるき)と小屋束(こやづか)、桁行梁をつなぎ、屋根材の重さや揺れを小屋組(こやぐみ 屋根を支える建物の骨組み)で共有になっていること、貫(ぬき)構造を生かして筋違(すじかい)していること、ほぞの利用を主としていることなどを説明しました。これがいわゆる伝統構法です。時代が下がるにつれ、柱・梁での補強、差鴨居(さしかもい)と大黒柱の設置などがあり、増改築がされた痕跡があるとの説明でした。
200年の歳月を刻んで今日において雄姿を見せている理由を明確にした研究内容でした。在来工法が広がるなかで、伝統構法の建物を後世に承継する意義は大きく、お屋敷保存会が米澤沢邸を修復保存して後世に伝承する重要性と根拠が、野澤氏らの調査研究からも裏付けられました。
(垂木:小屋組の一部で屋根の一番高い棟木から桁にかけて斜めに取り付けた部材 貫:壁の作り方で柱と柱を貫き通す水平材 ほぞ:一方の材に穴をあけてはめ込むために他方の材の一端に作った突起 筋違:柱と柱の間に斜めに入れて補強する部材 差鴨居:障子や襖の引き戸の上枠が鴨居、したが敷居。差鴨居は普通の鴨居より大きな鴨居で建物の構造上の役目を担う)
水害や地震に有用な土壁・伝統構法の秘密
さらに米澤邸は、水害や地震への対応の面でも重要な意味を持っていました。
長沼地域は洪水の常襲地帯でした。1742年(寛保2年)の戌(いぬ)の満水のとき、堤防に近い妙笑寺で水位が3.3メートルに達し、米澤家住宅でも2.3メートルであったと推測されます。明治時代にも長沼地域は3回被災しました。今回の2019年(令和元年)の水害では、米澤邸は1.6メートルの浸水でした(実測)。
水害時に威力を発揮したのは土壁でした。真壁(柱や梁などの建物の軸組が表面に見える壁)で、柱と柱との間に貫があると、流水で土壁が落ちても建物の構造への影響は少なく、土壁はヒューズのような役割を果たします。基礎と柱と梁と屋根が残っていれば、建物の修復は可能であり先人の知恵とも言えます。
長沼地域には土壁の民家や土蔵が多く、長沼地域独特の景観を醸し出しています。それは水害の常襲地帯であったが故の建築様式で、その伝統的な建築方法は終戦後の昭和20年代になってからも採用されていました。
長屋門の土壁も今回の水害で落ちましたが、支援グループ「Hope Apple」主催の6回のワークショップで、ボランティアの手によって完全に修復再建できました。(写真参照)
主屋は素材の木が持つ特性を生かした伝統構法になっており、これは揺れに強い免震構造で、地震に有効でした。土壁も揺れを吸収します。主屋は1847年(弘化4年)の善光寺地震、1941年(昭和16年)の長沼地震に見舞われています。伝統構法と土壁が米沢邸の建物を災害から守ったと言えます。長屋門については、長沼地震のあと筋違や添え柱およびボルトで補強されており、その様子を容易に見ることができます。
野澤氏は研究のまとめとして、「米澤家住宅は今日までの水害や地震を乗り越えてきた建物であり、様々な年代での災害への工夫を知るうえで価値が高い」とし、「水害の常襲地帯である長沼地区における民家の形成過程において、具体的な指標であり、伝統構法の水害への有用性を再認識するものである」とまとめています。
長沼地域には基礎を高くした土蔵が各所で見られます。米沢邸でも家財蔵、米蔵を高くしています。これも水害対策です。
お屋敷保存会では、米澤邸の利活用にあたり、水害の歴史と対策、防災を考える「生きた教材」として活用することを事業の柱として掲げており、米澤邸の建物群全体が、学術面から説明が可能になりました。
(伝統構法:西洋建築学の影響を受ける以前の日本建築のこと。木の特性を生かし、木と木を組み上げて建物を構成するのが最大の特徴。自然に対抗するのではなく、自然と共生する価値観がある。多様で不揃自然素材素材を巧みに生かす知恵や工夫が見られる)
長屋門には地域の産業を物語る遺構が
長沼地域の産業の変遷をみると、明治時代は養蚕で栄え、その後はリンゴ栽培が重要な生業になりました。その足跡とも言える遺構を長屋門で見ることができます。
桑の葉を入れるプール、リンゴを保存するときに活躍したレール(コンクリート)がそのまま遺っており、地域の産業の証として歴史を肌で感じ取ることができます。
土壁の長屋門の中は、外気が30度を超す暑さであっても涼しく、ひんやりとしています。全国各地の土壁の土蔵が姿を消しつつありますが、お屋敷保存会では、地域の産業の歩みを学ぶとともに、土壁の建物の特徴を体感できる場として、ここを生かす事業の展開を検討しています。
(遺構:昔の建造物の形や構造を知る手掛かりとなる残像物)
お屋敷保存会がめざす古民家の活用事業
お屋敷保存会は、歴史ある建物を修復保存するということだけでなく、ここを地域の人たちの寄り合える場所として生かすことを基本に据えています。歴史や伝統を学ぶ場、文化的なイベントを開催する場、人々のふれあいの場として利活用することで被災後の「まちづくり」を後押ししたいと考えています。琴や尺八の演奏会、百人一首やカルタ会、お茶や生け花教室、箱膳や郷土食の体験、コマ回しや羽子板などのイベント案が提案されています。子どもたちからは米澤邸の過去を知って「お蚕さんを育てたい」との声も。農繁期に子どもを預かってもらう体制を整えて母親のみなさんに援農してもらえないか、地域の魅力を知ってもらうときの合宿場に、災害の語り部の拠点になど、さまざまなアイデアが届いています。
地域住民の「つながり」を深める一助にするとともに、地域外の人々にも長沼の地を訪れてもらい、長沼の「魅力」を感じてもらうことを重視しています。とくに、被災直後に駆け付けてくれた災害ボランティアに向けて「被災地のいま」の情報を届け、再び訪れてもらえることを目指しています。
防災ステーション建設にともない、長沼城跡の埋蔵文化財調査がいま進められています。長沼は武田信玄と上杉謙信の決戦の舞台であり、北国脇街道があった宿場の町という歴史の刻まれた地域です。小林一茶が逗留し、弟子の十哲がいたことでも知られています。
全国から人々に訪れてもらい、地域に賑わいを生み出すことを展望し、そのときのきっかけ作りの支援を、被災当時災害ボランティアでかけつけた人たちに期待し、米澤邸はそのときの拠り所になり得るのではとお屋敷保存会では考えています。
修復再建に向けたボランティアの活動
主屋の中に積もった土砂は、被災直後の復旧活動でボランティアのみなさんの尽力により基本的には排出されていました。しかし、床下にはまだ落ちた土壁や泥が残っていました。米沢邸の修復は「協働」の力で成し遂げたいとお屋敷保存会は考え、昨年(2021年)の活動として何度かの「お掃除ワークショップ」を企画しました。
呼び掛けに応えて、さまざまな人たちがかけつけました。地域の個人ボランティアだけでなく、お坊さんのグループが集団で参加したこともありました。「ながの協働ネット」という組織が呼びかけた「地域まるごとキャンパス」のプログラムで、中学生・高校生・大学生も多数参加し、力を合わせ汗を流しました。
主屋の修復は、業者に依頼した場合、数千万円はかかると言われています。資金面でも作業面でも「協働」の力で成し遂げたいというのが、お屋敷保存会の基本的な姿勢です。かつての人々が「結」の力で助け合ったように、みんなの力で米澤邸に再び息を吹き込み、新しい「まちづくり」に挑むという気持ちが大きいからです。
「地域の宝」で復興―まちづくりの一翼を担う
中学校には「総合学習」という授業があります。その一環として昨年(2021年)10月、お屋敷保存会は東北中学校3年生の授業を受け入れました。まだ修復ができておらず、外へ吹き抜け状態の主屋の中での授業でした。長沼の歴史と文化、米澤邸の紹介と地域産業、ボランティア活動とは何か、被災住民の願い―の4つをテーマに各講師から話があり、そのあと「自分に何ができるか」を考えて、それぞれ用紙に認めました。
12月に開催された「長野市ボランティアのつどい」に際しては、「被災地のいま」をテーマに、米澤邸の庭からZoom・YouTubeでのライブ中継を全国に向けて1時間に渡って行ないました。米澤邸を核にした情報発信の取り組みでした。
新しい試みとして、地域を自転車で回って長沼の魅力を見つけてもらうツアーを企画中です。街並みと自然の景観、いにしえに思いを馳せての街道散策、長沼城跡の視察、被災と復興の道程など、プログラムはたくさん用意できそうです。もちろん米澤邸の詳細なガイドも加わります。
めざすのは、長沼の「魅力」を生かした復興―まちづくりです。その拠点になるのが米澤邸というお屋敷です。「地域の宝」ともいうべき米澤邸をランドマークにし、地域の組織や人々と連携しながら歩を進めたいと、お屋敷保存会のみなさんは話しています。
趣旨に賛同して活動を共にしてくれる仲間を募集中です。いまホームページの立ち上げも準備しています。
お屋敷保存会事務所
〒381-0002 長野市津野837 電話 026-296-3311
Eメールnaganumaoyashiki@gmail.com
取材執筆・太田秋夫(お屋敷保存会事務局長、ナガクルソーシャルライター)