2019年の台風19号災害からまもなく5年。長野市長沼地区の古民家「米澤邸」は土壁の修復がようやく始まり、元の姿に息を吹き返しつつあります。著名な左官職人6名の指導のもと、35名の塾生が4回(10日間)に渡って修復に取り組みました。
著名な親方たちが全国各地から参集の塾生を指導
米澤邸を会場にした「左官塾2024」は、左官の世界に詳しい空間美術家の木村謙一氏が企画・プロデュースし、本格的な左官技術を学ぶ場として開催しました。
「大津磨き」ができる左官職人として著名な小沼充(こぬま・みつる 東京在住)親方と親方に師事する岡山県や香川県などの職人が参集し、基礎となる「小舞かき」から最終の仕上げに至るまで4カ月に渡って実施。
左官に関わる仕事をしている職人見習い、大工、設計士などの業界関係者とともに、我が家の土壁を直したいと思っている人たちなどが参加しました。東京、茨城、千葉、神奈川、静岡、愛知、滋賀、京都、兵庫、群馬、新潟、石川など参加者は全国各地に及び、ベテラン職人から手をとるように教えてもらうことができました。
土壁の基礎(下地づくり)から学ぶ
主催は200年前の古民家「米澤邸」の修復保存と利活用をめざして活動している「一般社団法人しなの長沼・お屋敷保存会」で、木村氏や小沼親方とのつながりが深くなるなかで実現しました。(日本民家再生協会後援)
初回(6月15~16日)は葦や竹による小舞かき、杉の細木を利用した木ズリで下地を作りました。縄で固定していくやり方を教えてもらいます。また藁を土に入れて掻き混ぜ、次回に塗るための材料準備もしました。
2回目(7月13~15日)は、まず自分用の鏝(コテ)板づくりです。持ちやすく、そして作業をしやすくする必要があり、こまかく教えてもらいながら自分用に仕上げました。それを使っていよいよ荒壁塗りに挑戦です。コテ板に載せた土をコテですくって塗り付けるのは簡単ではなく、塗る前に下に落としてしまいます。でも、コテ板とコテの動かし方を教えてもらうことによって、塾生の手つきは急速に上達しました。
作業は徐々に難しくなっていく
3回目(8月24~25日)は中塗りです。これは仕上げの前の準備工程で、荒壁塗りとは異なり、素人には難関な作業です。ひと月前の荒壁は水分が蒸発してひび割れができており、表面はデコボコな状態です。仕上げのためには、この状態を平らにする必要があり、また木の板の貫(ぬき)が入っている場所もあるので、そこは特別な処置が必要となります。職人にやり方をみせてもらい、チャレンジします。
塗る土も荒壁のときとは種類が違います。土に混ぜる藁が小さくなっていて、業者から購入した出来合いのものを使いました。壁によっては何度も塗り重ね、かなり厚くする必要がある場所もありました。
熟達した親方たちの技に息を飲む
最終回(9月21~23日)は仕上げです。左官塾の開催にあたり「いろいろな仕上げ塗り」が予告されていました。まずはその特別な仕上げ塗りの技を親方たちに披露してもらい、真剣なまなざしで見学しました。
小沼親方は「大津磨き(赤塗、桜塗)」、青山和希親方は「黒漆喰磨き」、浦上稔晃親方は「水捏ね」を披露しました。いずれも熟達した職人でないとできない技法です。
その仕上げ作業の姿を見て塾生たちが感じたのは、「左官は体力を必要とする仕事だ」ということでした。磨きの壁は全身を使って息を切らしながら仕上げていきます。(下の映像参照)
また「繊細な技である」ことも感じさせられました。水捏ねは土に混ぜるスサや砂は極小で、これらは塾生の協働によって準備しましたが、塗るときは極めて繊細な作業です。なめらかな高級感あふれる仕上げになります。親方が慎重にコテを動かしていく様子を見ていて、塾生も息を止めてしまいそうでした。
ちょっとめずらしい驚きの土壁も完成
上越教育大学教授で日本美術院院友の洞谷亜里佐氏(日本画)は塾生として参加していましたが、漆喰の壁にりんごの樹を描きました。フレスコ画という技法です。長沼の産業をモチーフにしたカラフルな絵で、土壁が何かを語りかけてくるようです。
塾長の木村氏は土壁に傷をつけて描く「鏝削り絵」を制作しました。千曲川の川面のさざなみを土壁に表現しました。これも長沼の地を象徴するものでした。
左官技術の継承をめざした左官塾でしたが、あまり目にすることができない左官技術の粋を集めた「作品」が「米澤邸」の室内に並ぶこととなりました。まさに左官技術の「展示場」ともいえる空間が誕生しました。伝統構法の民家の特徴と技術を後世に伝えることが「米澤邸」保存の目的ですが、左官技術の粋を見学できる場にもなったことで、「米澤邸」に新たな役割が与えられたことになったといえそうです。
緊張感みなぎる「左官塾」最終日
塾生は親方たちの気合に刺激を受け、見学のあとは自分が関わっていた場所の土壁完成に向けて精力的に取り組みました。10日間に渡る左官塾はフィナーレを迎えつつあり、黙々と仕上げ塗りに取り組む塾生の姿で、「米澤邸」室内には緊張感がみなぎっていました。
最後の時間はまとめとして、指導してくれた職人のみなさんへの「直撃質問」タイムとなり、笑い声があふれる和やかな雰囲気のなかで10日間の「左官塾」は幕を下ろしました。
10日間全行程を通して参加した人がいる一方、最終回だけだった方もいましたが、先に学んだ塾生が新しい参加者に教える場面がたくさん見られ、和気あいあいとした雰囲気のなかで、充実したワークショップとなりました。
信州の郷土食を堪能
期間中の昼食は主催者が用意しました。県外からの参加者が多かったことから、昼食ケータリングチームは信州の郷土食を用意するようにしました。鯖缶を入れた「ネマガリダケのみそ汁」、さまざまな野菜を細かく刻んだ「やたら」、ナスを入れた「おやき」などを塾生に堪能してもらいました。
最終日は青木村のタチアカネ蕎麦でした。青木村から蕎麦グループのメンバーがかけつけて朝から粉を捏ねて打ち、出来立てを茹でて「盛りそば」にし、食べてもらいました。青木村のタチアカネ蕎麦は2021年に長屋門の土壁を修復するワークショップのときに応援に駆けつけてくれ、「米澤邸」の保存活動と深いかかわりがあったことから、最終日のメニューとして登場しました。
遠路足を運んで来た参加者に信州を知ってもらうためのおもてなしであり、「思い出に残る」と塾生には好評でした。
塾生同士のつながりが深まる
塾生はライングループでもつながり、自己紹介や近況、取り組んだ感想などを投稿して交流。お互いに励まし合いました。どんな人たちが参加しているのかを知ることができ、ライングループは塾生同士のつながりを深めることに一役買いました。
遠方からの参加者が多かったことから、お屋敷保存会の事務所を宿泊場所として希望者に提供しました。宿泊者は作業のあと、車で数分の「日帰り温泉りんごの湯」で汗を流し、夕食は自分たちで作って食べながら交流を深めました。小沼親方が作った「卓上お釜」で炊いたご飯は大好評でした。卓上用固定燃料を用いて炊き、ふっくらとした仕上がりのご飯ができあがります。
主催者は塾生同士のつながりが強くなることを願って左官塾の運営にあたりました。すべての日程が終了した帰り際に、「また会おうね」との声掛けをし合う風景が見られました。
左官技術をどう継承するかは大きな課題
長野市の長沼地域は千曲川の氾濫による洪水でたびたび水害に見舞われていました。先人の知恵で、この地域には土壁で伝統構法の構造の民家や土蔵が作られ、その建築様式は終戦後(昭和20年代)になっても引き継がれていました。水害や地震に強いことからです。
しかし、5年前の水害で、災害対策の公費解体制度により多数の古民家と土蔵が姿を消しました。その背景にあったのは、土壁を修復できる左官職人などが見つからず、修復経費も多額になる現状があったからです。
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2020年、「伝統建築工匠の技 木造建造物を受け継ぐための伝統技術」の無形文化遺産登録を決め、宮大工や左官職人らが古くから継承してきた17分野の技術の価値が世界的に認められました。
しかし、その左官技術を後世にどう継承するかは大きな課題になっています。今回の「左官塾」の実施は、その課題に一石を投じるものになったと言えそうです。
「米澤邸」の今後は
「米澤邸」を完全に修復するには莫大な費用が必要です。今回の左官塾で使用した材料等の諸経費は昨年実施したクラウドファンディングでの支援金が当てられました。
まだ手つかずの部分の土壁修復や建具の修復は今後の課題として残されています。お屋敷保存会では今後について、多くの人に関わってもらいながら少しずつ「修繕」していく方式をとり、その活動を積み重ねていくことにしています。
被災の伝承・防災の啓蒙とともに、長沼の文化と産業の歴史を伝える遺構として、また伝統構法の建物の特徴を伝える場として「米澤邸」を位置づけ、地域のコミュニテイ再生のために利活用する取り組みは、多くの支援・協力の輪を広げながら未来に向けて一歩ずつ前進しています。
「左官塾」の全貌を映像で公開
4回にわたる「左官塾2024」の全貌は映像で記録され、各回単位にYouTubeの長沼アップル放送局チャンネルで公開されています。左官職人による指導の内容を詳細に確認することが可能な内容になっています。
【米澤邸について】主屋は1818年(文政元年)創建。先代は1709 年( 宝永6年) にさかのぼる。3代目は1780 年に、4代目は1822 ~ 23 年にそれぞれ組頭、5代目は1832 年に名主を務めている。江戸末期(1800 年前後) において、米澤家は地域における有力な農民で、主屋はその当時に建てられた。明治時代は養蚕、昭和期はリンゴ栽培の生業で栄え、長屋門(明治26年創建)にはその遺構が遺っている。伝統構法で建てられており、1847年(弘化4年)の善光寺地震、1941年(昭和16年)の長沼地震、そして幾たびもの水害に見舞われたものの、修復を重ねながら現在に至っている。
取材・執筆 太田秋夫(ナガクルソーシャルライター、お屋敷保存会事務局長)