チャリティトーク/10代から20代のとき、あなたにはどんな居場所がありましたか

テーマ「10代から20代のとき、あなたにはどんな居場所がありましたか」

長野県NPOセンターの山室 秀俊代表理事と、長野県生活協同組合連合会の中谷 隆秀事務局長によるスペシャルトークを文字に起こして編集しました。 <2022年12月23日配信Facebookで>

小学生の時は川で魚の手掴み、そして秘密基地で遊ぶ日々

山室 今日は学びの拠点Fourth Placeのクラウドファンディング実施に合わせて、チャリティートークを始めていきたいと思います。中谷さんとは、災害支援の活動で、ご一緒していて、もう「頼れる兄貴!」という感じでお付き合いをしています。プライベートでも子ども同士が同じ保育園だった関係です。

今日のテーマ「10代から20代のとき、あなたにはどんな居場所がありましたか」に合わせて、10代20代を振り返って、自分の居場所についてお話しいただければと思います。

中谷 僕は田舎で育ったので、小学生の頃、学校から帰るといつもランドセルを自宅の窓から放り込んで、すぐにバケツとザルを持って、近所の川に小さな魚を採りに行くのが日課でした。夏の間はもうずーっとそんなことばかりしていましたね。ドジョウやザリガニにはあまり価値がなくて、フナとかハヤなどのしっかりした魚を、アミではなくザルで掬うんですよ。当時は、川のヘリがコンクリートじゃなくて板と丸太で打ってあったんです。その板と丸太の間に魚が集まるんですよ。そこの魚をガガッと手で掴む・・・幼少期はそんな毎日を送っていました。

春や秋は里山に行きました。川の堤防沿いの生い茂った木の根元のあたりに、こんもりとしていて子どもが入れるようなスペースがあって・・・まるで秘密基地みたいにして、遊ぶのが好きでした。

山室 中谷さんのご出身は?

中谷 京都と奈良の境目あたりなんです。

山室 お話を聞いていると、場所は違っても、私の幼少期と大分被るんですよね(笑)。田んぼが広がったり、山があったりするところなんかが似ていますね。

中谷 そうそう、田んぼでカエルとかを手で捕まえていました。

山室 一人で遊んでいたのですか?

中谷 魚を採りに行く時は、結構一人だったけど。秘密基地は友達とですね。神社に集まってビー玉やったりとかね。そういう時代でしたね。

山室 なんか、本当に話が被っちゃうねー(笑)。秘密基地を作って、地図を作って、友達と共有するのってすごいワクワクしましたよね。

中谷 そう、ワクワクするんですよー。

山室 秘密基地の中に、みんなで大事なものを家から持ち出して、そこに置いておくんですよね。

中谷 僕は、結構ゴミ捨て場で、価値のあるものを拾ってくるんですよ。

山室 (笑)

長野県生活協同組合連合会 中谷 隆秀 事務局長 長野県災害時支援ネットワークの幹事団体の一つとしても活動されています。

中学・高校では生徒会で、仮装大会に討論会と大活躍

中谷 中学生になると、ぼくは卓球部に入りました。勉強よりも部活が大好きでした。その頃、真面目にグラウンドを走らされていたからか、後々走ることが好きになって。50歳を過ぎてからマラソンを始めたりしたのも、その頃よく走っていたことが影響しているかもしれないです。

山室 中谷さんと言えば、マラソンというイメージです。しかも、還暦を迎えたんですよね。年間何本、マラソンを走るのですか。

中谷 コロナ禍の前はフルとハーフ合わせると、12、3本は走っていました。

山室 お馬鹿さんですね、それ(笑)。60歳近くになって、そんなに走るなんて・・・。

中谷 高校に入った頃、その時代は、世の中で「無気力・無関心・無責任」というような、若者たちに対して「三無主義」とよく言われていました。僕は逆に、高校1年生から生徒会の役員をやったり、運動部には入らなかったけれどクラス活動をやっていました。そして3年生の時は授業をサボって裏山に遊びに行ったりしてました。校舎の裏に小高い丘があって、夕焼けがすごく綺麗に見えるところがあったんですよ。

長野は山に囲まれているから夕焼けの時間が短いですが、京都をはじめ関西の夕焼けって、空全体が真っ赤になるんですよね。ばーっと視界に広がる夕焼けの美しさが素晴らしいんです。高校時代、文化祭や体育祭の前に遅くまで残って準備していた時に見た夕焼け・・・そういう光景が自分の原点にあるかなと思います。

山室 これも被りまくっているなー(笑)。私は、中学の時はバスケット部で、高校は剣道部でした。でも田舎の学校だったから、顧問の先生は、学生の指導にあまり力を入れてなかったんですよね。

中谷 わかる。顧問はたまに来て「私も卓球やらせて」みたいな感じでした(笑)。

山室 まぁ、お任せモードだったからこそ、僕ら学生同士が自主的に練習メニューを考えたり、後輩の面倒もみていましたよね。生徒会なんかも、すごく自由にやらせてもらってました。生徒会主催で、恒例の仮装大会がありました。

中谷 いいねー盛り上がるね。

山室 本当はクラス対抗だったんだよね。でも生徒会の役員がみんな結構親密に仲良くて、「俺ら(役員)だけで(仮装のグループを作って)やろう! 」となってね。当時、浦辺粂子 (1902-1989日本の名俳優)の役をやったんだけど、それがまたウケてさ。

中谷 女装ですか? 本格的だね(笑)。

山室 生徒会で賞品を出す方の立場にもかかわらず、自分達が優秀賞かなんか取っちゃってね(笑)。

中谷 すごいなー! 

僕が生徒会の役員をやった時には、京都南部の洛南地区というところで、他校の生徒会同士の交流もあったり、京都全体で「春討」ってやるんですよ。労働組合の春闘じゃなくて、「高校生春季討論集会」っていうんです。いろんなテーマに分かれて、自分達の思っていることを話し合うんです。京都市内まで電車で1時間かけて実行委員会に出席しに行ったりとか・・・おもしろい経験でしたね。

長野県NPOセンターの山室 秀俊代表理事 中高大生の居場所、学びの拠点を運営しています。

大学時代は、歌声喫茶が居場所に。人と絡む活動が経験値を上げた。

中谷 高校を卒業してから、大学進学で長野県に来たんですよ。ちょっと苦労人で、人よりも受験勉強をたくさんしたかったんで、二条城の隣にある駿台予備校に真面目に2年通ってから、長野に来たんです。

山室 二浪なんですね。

中谷 僕は3人兄弟の末っ子なんです。兄弟みんな浪人していて、高校の次は予備校って決まっていて(笑)。そんなに受験勉強好きだったのに、大学に来たら勉強をあまりしなくてね。一浪目の時に知り合った友達が、先に信大に来ていて、信大の学生自治会の教養部の長をやっていたので、「中谷、来たのか、じゃ次はお前やってくれ」と言われて、1年目の教養部は松本市で、学生自治会に絡んでいました。こう見えて、僕は工学部の建築科だったんです。

山室 えっ?! 今、生協にお勤めですよね。

中谷 お前の大学は意味なかったんじゃと言われることもあるけど、実は結構、役に立っています。工学部は2年生になると長野市内に引っ越してきます。当時は学生の自治会はなかったんです。

そんな時、JAビルの隣ぐらいに「歌声喫茶ともしび」というのがあったのを見つけました。当時、東京で流行っていた歌声喫茶ともしびを大好きな人たちが、長野市でも作ろうとなったのです。「音楽文化集団長野ともしび」というサークル活動として、歌声喫茶を運営して、ピアノやアコーデオンの伴奏で、リクエストした歌をみんなで歌いましょうという活動です。山室さん知らない?

山室 知ってるよー。申し訳ないけど被りまくってるの(笑)。とりあえず、その先を聞きたいからもっと話してください。

中谷 (笑)。学生の時にその「ともしび」にどっぷりハマっちゃって。ロシア民謡とかもたっぷり入っている歌集で、ほとんど全部歌えるぐらいに歌をおぼえました。そしてカウンターのお手伝いや掃除とかと一緒に、司会もやらせてもらいました。

山室 今も歌えるの?

中谷 もちろん! その中でも横井久美子さんの「私の愛した街」が大好きで、また京都を歌った高石ともやの「まち」という歌とかね。♪〜路地裏通り〜♫〜♪ なんて歌ってました。すると、平和の歌などを歌っている「長野合唱団」の方達がいらっしゃって、「研究生やりませんか」と言われて。

山室 スカウトされたんですね。

中谷 当時は「長野合唱団」に入団する前に1年間研究生というのがあって、発声練習や太鼓など、作曲や作詞などもやるプログラムがあり、それらを勉強しました。その後、団員になって、和太鼓を演出させていただいたり、伊那の田楽座(民俗芸能をもとに創作舞台を繰り広げる「まつり芸能集団」)で練習したりなど、そんな学生生活でしたね。だからあまり勉強はしていないのに、奇跡的に卒業できたんです。

山室 なぜそこが自分の居場所だって感じられたのですか。

中谷 うーん、昔から人と絡む、人と一緒に稼ぎにならないことをやるのが好きだっだんだろうね。振り返ると、ちょっと背伸びして活動することが、大きな目で見ると、人生のステップアップというか。経験値を高めた活動だったと思うんですよね。

山室 あー、兄さんそれ本当にわかります。今、小学校時代から中学、高校、大学時代と話を聞いていて、本当に自分の10代20代と被っているなと・・・。

中谷 (笑)

役割を持って、企画する側の活動経験が、今につながっている。

山室 今、中谷さんから指摘があったように、何かを作り上げる側に回りたいということ。確かにいろいろなイベントなど楽しいことがあったかもしれないけど、そこに参加するだけじゃ、なかなか満足できなくて、裏方に回って、企画からやりたい気持ちがあったんですよね。それができる集まりとして、生徒会や、学祭の実行委員会とか、大学時代の歌声喫茶だとか・・・。自分の役割を持って取り組むことが楽しくて、人が集まる居場所の中でも、自分の存在がここにいること、そしてみんなにも役に立っていること、それが自分にとっての成長になったのかなと思いました。

中谷 そうそう。自分のためというよりは、裏方的に人の役に立つことに生きがいを感じることがある。だから若い時の経験は、卒業したあとや、大人になって子育てしたりするときにつながっています。

僕の子どもが、以前長野市内の湯谷小学校に通っていた時、「こどもランド」って有志の集まりがあったんです。信州大学や県短期大学の学生さんたちが、自分たちのサークル活動として、一緒に加わっていました。そのレクリエーションサークルで、僕は保護者として10年近く運営に関わりました。

実は山室さんが代表理事を務める長野県NPOセンターの事務局長、阿部今日子さんともその頃、「こども劇場」のメンバーとして知り合いました。キャンプで、大人は当時長老と言われる立場で加わるんですが、その活動自体、僕の若い時の経験から一直線につながっている・・・僕の中ではその活動に加わることは自然な感じなんですよね。

山室 私は大学の時に、寮に入っていたんですよ。男ども140人で、むさ苦しくて・・・。近くの小学校の、夏休みに近寄ってはいけない場所に入っていたくらいです(笑)。

中谷 あー〜汚いとこだなー(笑)。わかるわかる。

山室 そこに4年間いたんですよ。相部屋で、先輩も後輩も無礼講でいろんな話をしていて、恋バナも男同士でしていました。また、学生運動っぽい「世の中ここが矛盾している」だとか、学生同士語り合ったりしながら過ごしていました。2人部屋だったから、一人になる場所がなかった。公務員試験を受けるために勉強していたんだけど、ずーっと人がたまっていて、すぐ横で酒盛りしているんですよね。そういう環境で生活していたから、逆に一人になると寂しかったんだよね。

中谷 わかるなー。

山室 そう考えると、生活そのものが居場所だったし、今の自分を作っている、人間形成の場だった。ただ、トラブルもあるじゃないですか。酒飲んで燻っていたことが爆発しちゃったり、喧嘩しちゃったり。でもそういうのがあるから、みんな本音で生きられる。いろんなことを抱えながら生きていかなくちゃならない。トラブルをうまく仲裁しながらとか、そういうノウハウをそこで身につけて育ったような気がします。

中谷 信州大学では僕は寮ではなかったんだけれど、こまくさ寮というのが松本にあって、友達がたくさんいたから、よく残食を食べに・・・。

山室 ああ、そういう友達は通称ハイエナって言われていました(苦笑)。

中谷 10円20円で食べられたので食べに行ったりとかしました。こまくさ寮には酔っ払った学生がバス停を引きずってきてさ。

山室 しょっちゅうですよ、そういうの。

中谷 でしょ? そういうことを当時の社会は、まだある程度許容していた。そういう馬鹿なことしていたから、割と大人になってまともになったということもあるんじゃないかなー。僕はよく松本の裾花川沿いをジョギングしたね。勝手に堤防にグラジオラスの球根を植えたりとかね。1年でいなくなったからどうなったか知らないけど。クラシック喫茶にも行ったね。リクエストしたピアノのショパンの曲をかけてもらったり・・・今となってみれば学生時代は懐かしい。初めて親元離れて一人暮らしをしたところは、自分の中で独特な感情があって、松本は心の故郷の一つです。

山室 ああ、私も大学は金沢に行ったので、第二のふるさとって思いがありますね。私の場合は金沢の犀川でしたがね。

今日のトークを通して、ほとんど被っているーー。考えてみると、なんで中谷さんとこんなに通じ合えるかなと考えると、生きてきたバックグラウンドが、違うところで過ごしてきにもかかわらず、さほど変わらない・・・。

中谷 今、明かされた!

山室 結構同じような経験をしたことが、濃い親友になった所以かなと改めて思いました。

「失敗してもいいんだよ」とおおらかに若者を見守れる存在になりたい。

山室 今、若者の居場所を改めて作らなきゃいけない時代に入ってきています。この辺についてご意見はありますか。

中谷 うーん、自分の子育てとかを考えると、自分の息子もつまずいたり、壁にぶつかったりする様子を見てきているので、結果を急がなかったりすることかな。親として見れば、自分の子どもをどこまできちっと信じて待てるかということもあります。

つまづいたり壁にぶつかったりした若い人を受け止められる場所とか、自分の親とも違う人に出会える場所が、こども劇場の時もすごく大事だと思った。それに若い時の失敗っていうのは、本当は失敗じゃないんだよね。今、僕は還暦になっちゃうと、全てが肥やしになるという気がしている。

確かに僕、留年もしているから、今でも「どうしよう、今日試験で全然勉強してない」という夢を見たりもしています。まだまだ自分は半人前だとよくわかっているんだけど、寄り道を許してくれた状況があったから、つまづいたり失敗したりしても、全部自分を作るために必要な、ジグゾーパズルの必要なピースだったと、今、思える。そして、家族や妻にも恵まれて、すごく幸せな生活を今はできていると思っているから、逆に若い時つまづかない方が心配になるぐらいという気持ちがあります。

山室 なるほどね。

中谷 今の若い人たちは、全てに結果が求められたり、正解を求められたりするのがしんどいというのはあると思う。あと5年後10年後20年後って考えたら、今のつまづきは重要なことではないんだよ、逆にプラスに考えられることもあるんだよということを、知ってほしいなと思います。

山室 確かに失敗しても結構温かく見てもらえる人がいたり、バカなことばっかりしているのに「バカだな」って言いながら許してくれたり。そんな周りの地域の人たちがいたおかげで、僕ら、人生の肥やしとなる寄り道ができたと思う。だから、今の若者にとって、そういう存在として「失敗してもいいんだよ」とおおらかに見守りながら、いざという時には手を貸せるような存在に僕もなりたいし、そんな居場所に関わりたいなと思います。

中谷 この歳になって、改めて自分の足元、例えば山室さんも芋井のリビングラボとかやってらっしゃる。僕も長野市の湯谷団地に住んでいるんだけれど、地域に根ざした活動をきちんとやりたいなという想いがあります。若者や子どもに限らず、不安を感じていらっしゃる高齢の方もいるから、多世代に向けた居場所が自分の住んでいる地域でできたらいいなと。この歳になってもそんなこと、やっていきたいって気持ちはあるんですよねーーまた相談に乗ってください。

山室 やー、ぜひ、期待しています。今日はありがとうございました。