長野県白馬村および小谷村を中心に2014年11月22日夜10時過ぎ、最大震度6弱の地震が起き、46名の重軽傷者が出ました。白馬村では87棟が全半壊の被害を受け、中でも堀之内地区では全壊40棟、半壊15棟でした。家屋の下敷きになった人が多数出たものの、隣近所の人たちが力を合わせて救出し、死者はゼロ。「共助」の力による対応の結果でした。当時、マスコミで「白馬の奇跡」と呼ばれ、地域防災のモデルとして評価されました。
この地震は小谷村から松本、諏訪を経て山梨へと本州を南北に走る「糸魚川―静岡構造線断層」のうち「神城断層」で引き起こされたものです。糸―静断層の今後30年以内の発生確率は、中北部(安曇野市―諏訪湖南方)で最大30%、北部(小谷村―安曇野市)が最大15%で震度7と予測されており、今回の被災を忘れることなく、今後の防災にどう活かすかが重要です。
被災建物・史料救援ネットが呼びかけて開催
つどいは「神城断層地震から10年 あのときから今、そして未来を語ってみる」と銘打って被災からちょうど10年後の11月23日(土)午後、大正時代に創建した茅葺屋根の古民家「マル七」を会場に実施されました。主催したのは「被災建物・史料救援ネット」です。被災から10年のタイミングでの開催でした。
当時、堀之内区長だった鎌倉宏さんが被災時の生々しい救出活動の様子と今後の防災への意気込みを話しました。小谷村教育委員会係長(当時)の澁谷祥充さんは被災して公費解体される土蔵などから貴重な古文書や民具を救出し、それをきっかけにして社会教育活動につながっていったことを報告。古民家「マル七」の当主伊藤学さんは建物の特徴と被災状況、そして今後どのように茅葺屋根の古民家を保存活用していくか悩んでいることをそれぞれ語りました。10年前の被災を多面的に考察して、被災の現実を受け止めつつ未来に向けて生かしていくことを、みんなで考える機会になるものでした。
隣近所の助け合い「近助」が生命を救う(当時区長の鎌倉さん)
鎌倉さんは当時の被災写真を映し出しながら、ジャッキやフォークリフトで被災者を救出した様子を生々しく説明。揺れが収まったあと、隣近所で声を掛け合って安否確認したことを語りました。「倒壊した家のどの場所、どの部屋に誰がいるか近所付き合いで分かっていたことが力になった」と言います。普段から住民は「人助けをすることが当たり前」と思って生活をしていることや、歴史ある地区で先祖代々から長きにわたって暮らしていることから、「共助の精神が強く、地区全体が一致団結して救助活動をした」と報告しました。
堀之内地区は村内でも特に被害が甚大で117棟中、全壊40棟、半壊15棟、一部損壊51棟、合わせて116棟でした。倒壊建物に取り残されながらも死者ゼロであったことから、メディアは「白馬の奇跡」と報道しました。このことについて、鎌倉さんは「我々は奇跡とは思っていない。当たり前のことを当たり前に実行したまでで、自主防災組織の活動や支え合いマップ、日頃から避難するときの心得の確認などに加え、地域の絆、人を思う助け合いの精神が家屋の下敷きになった人の早期発見、早期救出につながり、尊い人の命を守った」と考えを述べました。防災・減災の基本として「自助」「共助」「公助」が強調されていますが、鎌倉さんが強く訴えたかったのは、自分を助ける「自助」、地域組織による「共助」とともに、お隣と助け合う「近助」が大事だということでした。
自分たちにできることをやる、早期発見が早期救出につながり、大切な生命を守ることになると語った鎌倉さん。その日、鎌倉さんは自分の家族の安否を確認し、その後のことは息子に頼み、区長として暗闇の中を走り回って地域の人たちの安否確認を急ぎました。6棟が倒壊しており、そのうち4棟で住民が下敷きになっていました。揺れが収まると、住民も外に飛び出し、隣り近所で声を掛け合いました。助けを求める声が聞えたときは、人力だけでなく作業機材を使い救出活動をしました。
大きな被害が出たとき、「公助」が届くのを待っていたのでは間に合いません。隣近所が自力で力を合わせて動く必要があります。鎌倉さんは、救出に使える資機材が、どこにどんなものがあるかを普段から確認しておくことが大事だとしました。
被災から3年後、落ち着いてきたことから総合的な防災訓練をし、万が一に備えた活動に取り組んできた様子の報告もありました。
公費解体の建物から貴重な地域史料を救出し、新たな社会教育へと発展(社会教育に携わる澁谷さん)
地震でも水害でも被災した建物を壊すとき、「公費解体」という制度があります。土蔵や古民家には古文書や貴重な民具などが保存されていることがあり、この制度によって土蔵や古民家を解体するとき貴重な史料が消滅するかも知れません。それを防ぐための「救済の取り組み」をした実践の紹介がありました。
報告したのは、当時小谷村教育委員会で係長をしていた澁谷祥充さんです。震災の年から翌年にかけて「被災建物・史料救援ネット」によって調査活動を実施し、古文書や民具を救済しました。翌28年には報告会を2回開催しました。9月は「歴史・民族資料編」、11月は「建築編」でした。澁谷さん発表テーマは「地震で気づかされた身近な史料の大切さ」です。どんな史料が見つかったのでしょうか。
小谷村は信越の国境にあり、千国の番所がありました。慶長年間(1596〜1615年)に松本藩が設置した関所です。明治2年に廃止されるまで、塩や海産物、穀類などの運上税(通行税)の徴収や荷改め・人改めを行なっていました。松本藩は小谷七人衆を置いて国境警備をさせていました。七人衆のお宅でいま残っているのは2軒だけです。あとは村外に出ていますが貴重な古文書等が遺されているとみられていました。また村内の他の古民家にも古文書が遺されていると推測されました。土蔵等の解体とともに廃棄されてしまう心配があることから、教育委員会としてチラシを配布し、史料の提供を呼び掛けました。澁谷さんは、そうした調査活動について報告しましたが、中でも重要な成果だったのが「福俵」の存在が確認されたことでした。
いまの時代は古いお札はどんど焼きなどのときにお炊き上げをしますが、江戸時代は屋根裏に大きな米俵を吊るし、その中に古いお札を入れていました。そういう風習があったことが記録として残っていました。その現物が発見されたのです。煤だらけの俵の中を学芸員が調べてみると、富士浅間神社のお札が出てきました。この地域の人たちが山梨の富士浅間神社へ参拝に行っていたことの証です。富士山世界遺産センターの学芸員がそれを知って富士信仰の企画展をすることになりました。そこで小谷村公民館は村民を募って見学に行きました。澁谷さんは「被災地で救済した史料からいろんなことにつながっていった」と報告しました。
〈公民館講座開催に結実〉
また公費解体する過程で、小谷地域の民家の構造(屋根の角度、梁の使い方など)の特徴が分かったことや、民家の棟札(むなふだ)から「そうま」という職業があったことがわかったと説明しました。「そうま」というのは、山から木を伐り出して製材し建築材料をそろえる職人です。棟札に大工の棟梁とともに「そうま」の棟梁の名前が記されていることから、「そうま」の役割と位置づけが重要だったことが浮き彫りになりました。
この話には続きがあり、「そうま」だったYさんが、この報告会に参加していたのです。そこで翌29年6月、Yさんのお話と技術の実演をしてもらう公民館講座が実施されました。
さらに公民館講座「職業編」として、その後毎年連続講座が企画され、「大工職編」(29年)、「茅葺職人編」(30年)、「左官職編」(令和元年)と続きました。
2024年10月、小谷村で「全国草原サミット・シンポジウム in 小谷」があり、初日の基調講演は講師と茅葺職人の対話が行なわれ、2日目は茅場の見学と茅刈り体験、模型の茅屋根での屋根刈り体験をした実践報告もありました。
被災という不幸に直面したものの、史料救済の取り組みを通じて地域の歴史を発掘し、さまざまな学びへと発展した事例として貴重な内容の発表でした。
5年前の千曲川堤防決壊の被災でも、その後の対策として長沼地区に防災ステーションを建設することになり、その施策のために埋蔵文化財調査が行われました。それまで「幻の城」といわれていた長沼城の存在と当時の状況の一端が明らかになったのです。これらは、被災というマイナスを新たな取り組みによって生かすことができた教訓といえそうです。
茅葺屋根の古民家をどう後世に遺していくか(マル七当主伊藤さん)
会場となった茅葺屋根の古民家マル七は大正9年(1920年)に6代目、7代目によって建てられました。現在の9代目当主の伊藤さんは、マル七の歴史や建物の特徴から説明を始めました。
伊藤家の初代は正徳4年(1714年)で、以前の建物は現在の主屋の北側にありました。310年前です。囲炉裏、障子、襖などの一部は、この以前の建物にあったものを使用しているとのことでした。襖絵は中国唐時代の杜甫(とほ 712~770年)が李白(りはく 701~762年)に送った『飲中八仙歌』が描かれています(表装を修復したため価値が下がったと言われているとの説明)。
1階が88坪、2階が56坪の大きな建物です。2階はほとんどが蚕室でした。建てられて以降、1999年まで外壁の修理や塗装はほとんどされておらず、この年に外壁をモルタルで下処理して漆喰を塗り直すなど一部補修しただけとのことです。茅葺屋根は船枻造り(せがいづくり)という工法で、20~30年の周期で葺き替えをしてきました。最近では昭和48年(1973年)と平成9~12年(1997~2000年)に総葺き替えをしています。伊藤家は茅場を持っていて、2000年くらいまでは蓄えた茅を使用していました。葺き替えは近所の人たちの力を借りて行なうのが伝統的なやり方で、職人は一人でした。そのため、茅葺屋根の維持費用というのは職人の日当だけで済んだとのことです。
隣接していた明治11年築の土蔵は、今回の震災で柱が折れてしまい、解体を余儀なくされました。
伊藤家は蚕種業を営み、林業もしていました。その後、民宿を営んできました。(現在は廃業)
〈被災の状況と茅葺古民家維持の課題〉
震災の状態についても、写真を映し出して説明がありました。食器棚や書棚は倒れ、土壁は落ち、床下の束も折れてしまったと言います。部屋の板戸の中身が外れました。その痕跡がいまも遺っています。『飲中八仙歌』の襖も中身が外れました。「何から手をつけてよいかわからなかった」そうですが、翌朝から近所の人たちや親戚などがかけつけてくれ、復旧作業に当たりました。
民宿をやっていたことから、被災を聞きつけた元お客さんたちが次々に来てくれたとのことです。寝袋やシーツ・枕カバーを持参し、自分の食べ物だけでなく伊藤さん家族の分まで用意し、ご飯も作ってくれたそうです。それは翌年の5月ごろまで続きました。被災からまもなく災害ボランティアのみなさんも入ってくれ、この人たちには土蔵の落ちた土壁の除去をお願いしました。翌年5月には土蔵の公費解体が始まり、学芸員によって中にあったものをいったん外に運び出し、価値あるものと処分するものとに仕分けしました。
伊藤さんの話は今後の展望についてへと移り、「一番の課題は茅葺屋根」と話しました。「茅葺屋根がなくなっていくのは、それが維持できないからです。1回手をつけると100万円単位になってしまう」と苦悩を語ります。
活用事例の話では、震災の年の春(震災前)に食旅☆NAGANOという団体が外国人を対象にしたイベントを行なったそうです。着物を着てもらい、けん玉や福笑い、折り紙などを体験しました。
民宿を止めてからも、お正月は決まって泊まりに来る人がいることも紹介しました。親戚の女性がマル七を使って農家民宿をやりたいと話しているとのことで、それに期待をかけているとの説明もありました。いろいろな方から提案があり、クラウドファンディングの活用やイベント・会議の場所の提供、各種撮影の現場などが考えられているようですが、一番の課題である「茅葺屋根の維持」をどうするかについての見通しは、まだ難しいようです。
伊藤さんは、「日本の原風景を描けと言われたら、茅葺屋根を描く人が多い。遺していきたいという強い思いがあるので、何とかしていきたい」と話を締めくくりました。
震災はつらいが、「看取り」をしなければならないことも(主催した長谷川さん)
つどいを主催した被災建物・史料救援ネット共同代表の長谷川順一さんは、解体家屋から史料を救うことができた意義を語りました。
壊す建物だから調査してと言われた建物は61棟もあったそうです。澁谷さんの報告にあった福俵にお札を入れる習慣については「リアルに見えた」と話しました。建物の構造についても時代の変遷で変化していました。以前は長い木材を使用していたものが、運びやすくするため短くなるなど、その違いが現場からわかりました。「本では学べるけれど、これだけの数をいろいろ見ると、これは江戸時代後期だな、これは大正期ころだなというのが見えるようになった」と言います。
震災というのは非常に辛いが生きている以上避け得ない、どこで起きるかわからない災害であり、解体される建物の看取りをしなければならないこともあるとして、「こういう性格の建物だったんだ。大工さんもいい仕事したね」と捉えることも大切だとしました。
また、今回は小谷村での実践報告でしたが、白馬村でも同様の調査や学びが行なわれたことの紹介もありました。
歴史ある茅葺屋根の古民家で開催された今回のつどい。参加者は趣のある雰囲気のなかで、被災を乗り越えていく気持ちを抱いたようです。糸魚川―静岡構造線断層による地震が発生したとき、山国である長野県は震度7により甚大な被害が予想されます。
この日の参加者は地元住民のほか研究者、地域づくりの活動家、防災関係者など17名でした。人数はそう多くはありませんでしたが、情報を共有しながら交流を深め、囲炉裏を囲んでお餅を食べながらの談笑が続きました。
取材・執筆 太田秋夫(ソーシャルライター 防災士)