少しく軍事史を学んできた私だが、80年前の戦争では海軍は陸軍とは真逆で、”早期講和”すなわち「できるだけ早く戦争を終わらせようとしていた」というのが通説だと認識していた。
しかし、終戦時の安茂里村長の「自由日記」を解読して強い衝撃を受けた。海軍は軍令部(最高司令部)を安茂里小市の地下壕に移転し、松代にこもる陸軍と共に長野盆地で最後の戦を企図していたのだ。
沖縄の組織的戦闘が終結した6月23日の翌24日、篠ノ井の中尾山に構築されつつあった陣地に高射砲部隊を派遣するなど、それまでのただただ安全のための大本営の疎開から、長野盆地でのゲリラ戦敢行のための最高司令部へと変貌したのだ。
もし中堅将校の玉音放送阻止の目論見が成功したら、彼らは平泉澄の国体思想を忠実に実践したであろう。嫌がる天皇を御座所に押し込め、盆地南部を睥睨する海軍部壕の高台で陸海一体化しつつあった軍を指揮し、その結果として最悪の場合、米軍による第3回目の原爆投下もありえたと推測すると鳥肌が立つ。
塚田佐元市長は「海で戦う海軍が信州の山中に立てこもるなんて、あの時の大人は本気だった。戦争は人間を狂わせる。このことを後世にしっかり伝えてくれ」と言い残された。昭和の安茂里を語り継ぐ会はそれを胸にこの5年余り取組んできた。
私は、故郷をこよなく慈しむ方々とご一緒出来ていることに無上の喜びと誇りを抱いているが、さらに加えて肝に銘じているのは、極秘部隊海軍通信隊薗田部隊の実質的差配者であった墨谷大尉の無念である。
大尉は戦後福井県北潟で議員になるなど社会貢献はされたものの、長野で本土決戦のための作戦行動をしていたことは、「そのことをしゃべると己が一生を捧げ大恩受けた海軍に大変な迷惑になる」と亡くなるまで一貫して黙秘を続けられた。人は体験したこと、とりわけそれが国家中枢に関わることならばなおのこと、話しておかねばとなるはずなのに、しかし大尉は……。
そこで、そのことを知り得た私たちが大尉の心もおもんぱかり、何としても歴史に記しておかねばならないと思う。
皆さま、安茂里の海軍部壕にぜひともおいで下さい。そして隠蔽されて生じた歴史の空白を、一緒に解き明かそうではありませんか。塚田武司・岡村元一共同代表以下会員一同、お待ちしております。

執筆:「昭和の安茂里を語り継ぐ会」事務局長 土屋 光男
初出:長野市民新聞 NPOリレーコラム「空SORA」2025年8月掲載