「ナガクル」ソーシャルライター講座で、内山二郎さんの人生から「書き手」としての指針を学ぶ

長野県NPOセンターが運営する市民とNPOをつなぐポータルサイト「ナガクル」に執筆しているソーシャルライターの研修講座が長野市内で2025年2月8日、フリージャーナリストの内山二郎さんを講師に迎えて、リアルとオンラインで行なわれました。

現在、ナガクルで執筆するソーシャルライターたちは13名ほど。いずれもプロのライターや市民活動家として新聞・書籍・各種Webメディアなどで活躍しつつ、ナガクルの研修を経て執筆しています。

研修講座はライターたちにとって、「書き手」としての在り方を深く考え、気を引き締める機会となりました。波乱に富んだ内山さんの80年の人生の歩みと「人や社会に心を寄せる生き様」は刺激的で、これからの執筆活動に示唆を与えました。

奥が深い内山さんの「ポレポレ人生」

講座のテーマは「内山二郎さんのポレポレ人生を聞こう」で、一般希望者も含め22名が耳を傾けました。ポレポレというのはスワヒリ語で「ゆっくりゆっくり」という意味です。年齢を感じさせない迫力ある声で、ときには演劇の脚本・演出をしている内山さんの真骨頂を発揮した話し方に、参加者は引き込まれました。

内山さんの「ポレポレ人生」は変化に富んでいます。ジャーナリスト、映画監督、TVディレクター、傾聴者、ファシリテーターなど様々な顔を持っており、昨年6月までは長野県長寿社会開発センターの理事長として長野県シニア大学の運営にも携わっていました。

人生の前段として、学生時代にベトナム戦争下の現地に赴き、大学卒業後はマグロ漁船の船乗りになり、造船所のとび職や焼き芋屋を経験し、さらにアジア・インド・東欧などを旅します。アフリカで病いに倒れたことから、40歳のとき故郷長野に戻るという波乱万丈の、まるで「映画のストーリー」のような人生です。帰郷後、たくさんの人たちを巻き込んで社会課題に取り組む行動力にも目を見張るものがあります。

研修講座のチラシ

すべての出来事と経験には意味がある

講演の冒頭で内山さんは人生を振り返り、「出会いがあり、コトが起こってくる。偶然のようだがそれは必然であり、そのときそのときを一生懸命に生きること」と話し、「すべてのコトにトキがある」(旧約聖書のコヘレトの言葉 =人生で起こる出来事や経験には必ず何らかの意味があるという哲学的な視点)を受講者に贈りました。それは80年の人生のなかで内山さんが感じ取った「人生訓」のようでした。

100篇のエッセイを出版

内山さんは2024年7月、『人生、ポレポレで行こう』を出版しています。2001年(平成13年)から2024年(令和6年)にかけて「長野市民新聞」のコラム「こだま」に寄稿した100篇のエッセイをまとめたものです(発行 しなのき書房 本体1,500円)。

内山さんは40歳のとき、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(5,895m)の登頂に挑戦しました。ベテランガイドのムーサ―老人(70歳)とポーターの少年3人にサポートしてもらい、1週間の行程でした。本格的な登山経験がなかった内山さん。急峻の山道で他の登山者が追い越していくとき、ムーサ―老人は「ポレポレで行こう。登山は長い人生と同じ。一歩一歩踏みしめて」と励まされたそうです。本のタイトルにも、内山さんの「人生訓」が込められているのです。「ポレポレはただゆっくりと歩くということではなく、一歩一歩踏み締めて歩くことに意味があるんだよ」と教えられたそうです。

世界をこの目で見て歩く

内山さんの人生の軌跡を訪ねると、40歳までの前半は貪欲に世界各地を回って、さまざまな体験を積み重ねていきます。その先々でいろいろな人と出会い、交流を深めるなかで、人の気持ちを汲み取る力や関わり方を身につけていきます。

その出発点は学生時代の丸山健二さん(『夏の流れ』で1966年に芥川賞受賞)との交流で、映画鑑賞を共にするなかで執筆や映画への関心が高まります。べ平和連(ベトナムに平和を市民連合)の活動にも参加。そのときベトナム従軍記者だった岡村昭彦さんやピューリッツァー賞を受賞したカメラマン沢田教一さんの写真を見て影響を受け、「こんな平和なところでデモ行進をしていて何が反戦だ。戦争の現場へ行って苦しんでいる人たちの気持ちをしっかりと受け止めることが必要ではないか」と考え、在学中だった慶應義塾大学を休学してベトナムの戦地へ赴きます。さらにカンボジアやタイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンへと足を伸ばしました。

大学卒業後の進路は、何とマグロ船の船乗りでした。看板員は何の資格がなくても乗ることができます。半年から1年海の上で生活をしていると、「だんだん人間の皮が溶けて来て動物化していく」そうです。イライラして喧嘩になり、いじめが起きる。新参者の内山さんは、いじめの対象でした。でも仕事に慣れるにつれて可愛がってもらうことができるようになり、「このときの経験が人との関り方の学びになった」と話しています。

マグロ船の船員に

いろんな生き方のなかに物語がある

内山さんの稀に見る人生経験は続きます。

造船所でのとび職をしていたときのことです。60mくらいの高さから人が落ちて蛙のようにぺちゃんこになる事故が起きました。救急車が来て、けが人を乗せて立ち去るとその場を水で洗って、あとはもう何もなかったかのように作業が進んでいく、そんな現場を目の当たりにします。

沖仲仕の体験、トランスジェンダーの人との関り、北海道根室から北洋へ行く漁船に乗ってソ連の巡視船に追われたことなど、内山さんの体験談はとんでもないことのオンパレードでした。

映画作りを目指したときの体験も壮絶です。お金にならないので新宿で焼き芋屋をし、そのときに出会ったのが新宿の人生模様にカメラを向けていた写真家の渡辺克巳さん。この人との出会いも大きかったと言います。

やくざの島争いに巻き込まれたり、ヌードスタジオの女性がひどい目に遭っているのを助けたり、若者が警察に捕まったのをもらい下げに行ったり、人生に絶望して自殺した女性に身寄りがいなかったため焼き場に連れて行って焼いたりというように様々な体験を重ねます。

内山さんがそのときに学んだのは「人間の存在は多様で一つの型にはまった人間の生き方はなく、いろんな生き方の中にその人独自の物語があり、その一つひとつが代えがたくおもしろい」ということでした。そんななかで「誰とも話ができる。目と目があって3秒あれば友達になれる。その日はもう夕方にはご飯をいっしょに食べるということができるようになった」と話します。

世界各地を回り、ジャーナリストとして書き続ける

内山さんの目は海外に向いていました。アジア、インド、アフリカ、北欧、東欧、オーストラリアなどを取材して回ります。「南京大虐殺はなかった」という論調が広まったことから南京大虐殺の真相を探って朝日ジャーナルに寄稿し、リベリアでダイヤモンドのポリシング(研磨)する商社で通訳をしたことも。エチオピアとケニアの国境の飢餓地帯で骨と皮だけの子どもたちに出会って写真を撮ったことについては、何の手助けもせずに立ち去ってしまったことが心のしこりになっていると言います。

ポルポト時代の圧政で120万人が命を落としたカンボジアの取材では、収容所で看守をしていた人からの聞き書きを雑誌に寄稿しました。そのときの取材体験を中学時代の恩師に熱く語ったことから、カンボジアの村に学校を建てて教育支援をする取り組みにつながりました。

20年ぶりに故郷へ戻り、以後は地域の活性化に取り組む

アフリカでの活動中、耳の三半規管に変調をきたして帰国することに。1983年(昭和57年)、療養のために故郷信州に帰ります。20年ぶりに戻ったムラは過疎化が進み、すっかり元気を失っていました。「道路ができ工場ができても若者は帰って来ない」という論調のエッセイを書きます。そして地域の若者頭になってお祭りの復活に取り組むのです。

それが村芝居でした。台本を書き、一升瓶を持参して地域の人たち一人ひとりに出演を働きかけました。2か月の稽古をして公演。村に喜びが戻ってきました。

この取り組みの意義について、内山さんはこう説明します。「単に村芝居をやるだけでなく、村でいま何が問題なのか。嫁の来てがない、百姓の継ぎ手がいないということを入れてセリフを作っていく。2か月やりとりをするなかで話し合いながらセリフを変えていくのは、ワークショップだった。どうすればいまの地域の課題を解決できるのか、みんなの気持ちをどうすれば動かせるのかを学び合う場だった」と振り返ります。介護の問題、認知症の問題などもテーマにして芝居を組み立てました。

「おやき」による小川村の村起こしでは、ロサンジェルスの「日本エキスポ」におやきを売りに行きました。もんぺ姿の婆ちゃんたちが飛行機に乗って行ったそうです。田舎の婆ちゃんたちが、海外へ出向くという未知の体験を内山さんは仕掛けたのでした。

「福祉」との出会いは冨永房枝さんの一編の詩「障害冥利」でした。360編の詩を見せてもって感動。「人間が生きていく上での学びの詩だ」と感じ、『ふうちゃんの詩 “女の子”のとき』を出版します。詩集ができあがったとき、ふうちゃんが足でキーボードを引いた音楽と詩の朗読とのクロスオーバーライブを県民文化会館で行ないました。

1998年の「長野オリンピック・パラリンピック」開催に合わせて、「アートパラリンピックながの」を企画。スウェーデンのゴスペル歌手で元パラリンピック水泳選手のレーナ・マリアさん(生まれつき両腕がなく片方の足は半分というハンディキャップの持ち主 )を招いて善光寺本堂でクロスオーバーライブを開催するなど、福祉の分野へと内山さんの活動範囲は広がっていきました。

「福祉」との出会いになったふうちゃんの詩

地域課題に立ち向かうさまざまな活動を展開

失語症の人たちとの出会いからコミュニケーション・ワークショップテキストを作り、「言葉のきずな」というドキュメンタリー映画制作につなげ、「高齢者社会をよくする女性の会」の長野大会では「新姥捨ものがたり」という特別企画公演を行ない、2011年の東日本大震災支援で現場に出向きます。被災したおばあちゃんと話すなかで家族を失った人の気持ちが理解でき傾聴の意味を深く知ったこと、ストレスでいっぱいの福島の子どもたちを長野県に呼んでリフレッシュしてもらう「サマーキャンプ」の取り組みを企画し3,000人くらいの受け入れをしたことなどの紹介もありました。

東日本大震災の支援活動で「傾聴」の意味を深く知る

原体験が強烈な実行力に

内山さんは幼少期、優しかった父親が戦争の話をするとき鬼の形相になったことがトラウマになり、その原体験が「平時は優しい人間が、戦時にはなぜ多くの人を殺せるのか」という大きな疑問を抱かせたと言います。それがベトナム戦地へ出向くことになり、その後の内山さんの生き方を方向付けます。それは世界各地を回るエネルギーともなり、帰国後の社会活動のなかでも遺憾なく発揮されました。

内山さんの人生の歩みに耳を傾けながら、社会課題をテーマに執筆を志している「ナガクル」のライターとして、どんな哲学と視点で取り組んでいるか自らに問いかけざるを得ない気持ちに追い込まれました。

ライターとして、自らの姿勢を振り返る

内山さんはどんな人―受講者の印象

内山さんの口からほとばしり出る体験談は際限なく続きそうでしたが、講座は感想の交換や質問へとプログラムが変わりました。ソーシャルライターのみなさんは、果たしてどんな受けとめをしたのか――。

「内山さんの生き方は、一口で『表現者』と言っていいと思う。原稿の執筆だけでなく、舞台作りだったり、ワークショップだったり、イベントの企画プロデュースだったり、いろいろな活動に共通するのは、自分の思いを“表現”する行動だと感じた。見習って『表現者』になりたい」

「内山さんはいろいろなジャンルで命をかけて書いてきた。自分も文章を書くことで生計を立てているが、まだそこまで強烈な思いがない。ライターとしての反省点だ。『何に命をかけるのだ!』というメッセージを受け取った気がする

内山「命をかけてると言われたけれど、出たとこ勝負だよ。とても幸せだったと思うのは、何かやろうとしたとき一人じゃなくて、いろいろな人が関わって来てくれる。その人たちがとてもいいメッセージをくれ、いっしょにやる力になってくれている」

「内山さんは『活動家』でもあると思う。そのきっかけが、自分で社会課題を見つけて書こうというのではなくて、人と出会い、その人の目線でとらえ、その背景にあるものを見つけていく。そして自分でできることは何かを考えて、表現することだけでなく、アクティビストとして活動もするという珍しい存在、唯一無二の人だと思う」

内山「自分にできることは何だろうというのは考えるね。自分にも弱い部分がある。そこは周りの人がサポートしてくれる。自分が得意とすることは何かを考えると何か見えてくる。自分独自でできるわけじゃない。みんなの力があって形になる」

「内山さんはむさぼるように、いろいろ引き寄せながら生きて来たように見える」

内山「いや、むさぼらないんだよ。ビクビクしながらやっていると、みんなかわいそうだと思って、ほっておけないと助けてくれる」

「長野へ来てからはそうかもしれないけれど、若い頃のむさぼり方はすごい」

内山「苦しいと思ったことはあまりない。けっこう楽しんでいる気がする」

内山さんの周りにはいろんな人がいて、共に歩んでいることを強く感じさせられる話でした。そんなことから、こんな感想も出ました。

「いろんな方を巻き込んで、いろんな方を元気にし、自分のやりたいことを進めている」

「周りの人は親しみを持って『二郎さん、二郎さん』と呼んでいる。二郎さんに初めて行き会ったのは30年前で、ボランティアセンターができたばかりのころ。そのときも周りの人を巻き込んでいた。5年ほど前に久しぶりに会ったら全然変わっていなかった。今もそうだけど、元気さとにこやかさがあって、すごい人だと思った」

いつも仲間が周りにいる内山さん

記事をメディアに掲載できるジャーナリストで何故いられたのか

内山さんが各種のメディアに若い頃から寄稿し続けて来たことは、「物書き」をするライターにとって羨ましくもあり不思議でもあり、その点についての率直な質問も飛び出しました。

「ジャーナリストにはそんなに簡単にはなれないと思うが、マグロ船に乗りながらとか、ダイヤモンドの商社で仕事をしながら書いた記事が載るというのはすごいことだ。内山さんの不屈の精神からなのか、出版社に助けてくれる人がいたのか、そこを知りたい」

その秘密を惜しげなく公開してくれましたが、やはり人との関りの豊富さが背景にあるようでした。

内山さんの生き方に学ぶ

内山さんの人生体験は、参加者の今後の「生き方」にも影響を与えました。

「冒頭の話からガツンと来た。ポレポレなんだけど“高速のポレポレ”という感じだった。生きていくのに経験とか現場とかが大事だと思った。人と会ったり体験したり、感情を思い起こしたりということを今後はもっとしていきたい」

「これをやりたいとか、大きいことをしたいということでなく、内山さんは自分の興味関心のあるところに行くと周りに人がいて、いつしか大きなことができているんだと感じた。ポレポレで周りに人が集まって来て助けてくれ、結果として広がっている。自分は一人でやりがちなので、助けてもらえるような人間になる生き方をしたい」

「これからの生き方を考えているタイミングで内山さんの生きてきた歴史に触れることができた。考えるより行動してみる、理屈よりも現場に行く、自分自身が感じたことを大切にする、なんか良い感じだなぁと思った。理不尽なことや悲しいこと、やり切れないことなどがたくさんあるけれど、人の優しさやぬくもり、繋がりを信じて、これからの人生を歩いていきたい」

「学生時代に休学して戦地へ行った話を聞いて感じたのは、その話をいまの高校生に聞いてもらったら進路など今後の歩み方の役に立つと思う」

理事長退任後の今後の道程は

受講者には気になっていたことがありました。長野県長寿社会開発センターの理事長を退任して今後は何をしていこうと考えているかを知りたかったのです。その質問が率直に出されました。内山さんは、果たしてこれから何に挑戦しようとしているのか――

内山「声をかけられたとき、自分がやって来たことをどう生かせるかを考えたい。たとえば『芝居を作ってくれ』と言われたら『ああ、おもしろそうだ』と関わっていく。いまはこういうことを、こういう計画でやるという具体的なものはナッシングだ。いっしょにやれることを教えてほしい」

具体的な予定は語らず、今後の姿勢についてのみにこやかに答えました。

司会者が「みなさん何か提案してくださいね」と言うと、内山さんはさっそく笑いながら、「おもしろがらせなきゃだめだよ」と反応しました。何かの事業で形があり、それに縛られているのはおもしろくないので、「楽しむことが大事」であることを力説しました。


「ナガクル」のソーシャルライターとしての決意

関心事をどこまでも貪欲に追求し、現場に立つことを大事にし、人間関係を活かしながらフリージャーナリストとして歩んできた内山さん。その視点は常に社会に向けられていました。不合理な社会や政治についても発言してきたことは、24年間書き綴ってきた100篇のエッセイの内容にも現われています。内山さんの人生の足跡は、ソーシャルライターのあり方として教示を与えてくれるものでした。

この日の学びを力に、ソーシャルライターとして真摯に書き続けて行く気持ちを強くして、それぞれの活動の場へと戻って行きました。

執筆・ソーシャルライター 太田秋夫